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ひきこもり歴13年から今にいたるまで①

11歳から24歳までの13年間をひきこもりとして過ごした。
実家は鹿児島で、ひきこもりだった13年間は家族以外との接触も会話もほとんどなかった。

ひきこもっていたとき、よく窓辺で過ごしていた。
家は海の近くにあり、天気しだいでは夜になると波の音が聞こえていた。
田舎で街灯が少なかったから、夜になると窓の外は真っ暗だったけれど、月夜の日は地面に木々や建物の影がはっきりと映っていた。
ふとそんな光景を思い出す。

私は今、東京の大学で福祉を学んでいる。

そして、大学の縁からバイト(人生で初めてのバイト)を紹介してもらい、重度訪問介護従業者の資格をとって重い障がいを持ちながら自立生活を送る人の生活をサポートさせてもらっている。
バイトを始めてもう丸3年になった。

私の方がサポートされているのではないか、なんて思うこともあるのだが、それはまた別の機会に書こうと思う。

13年間ひきこもっていたことを私が話すと、ほとんどの相手は「どうやってひきこもりを脱したの?」「なにがきっかけだったの?」と尋ねる。

大きなきっかけがあったといえばあったのだが、それは表面張力がある一点を越えて、水がコップからあふれるみたいに様々なことの蓄積によって起こったという方が正確だと思う。

ひきこもりという先の見えない状況にストレスが限界を迎えていたこともあるし、両親の高齢化ということもあった。

また、不登校になったときから飼い始めた猫が亡くなったこともきっかけの一因であったかもしれない。

今回は自分が外に出るに至る経緯を書いてみようと思う。

いきなり、重たい話をしてしまうが、ひきこもっていた当時は、世界に私が生きていける場所などあるはずがない、私が皆と同じように暮らすことなど許されないという思いから、自分はいつか自殺するものと考えていた。

「今は自殺までの執行猶予なんだ」そう自分に言い聞かせることでなんとか生き延びていたとも言えるかもしれない。

生きることを考えることは傷口に手を突っ込むことと同義で、反対に死を考えることは麻酔を打つみたいにどこかの神経を麻痺させてくれた。

しかし、24歳のとき、ふと自分は自殺しないと気が付いてしまった。
今、自殺できないのであれば、この先も自殺できないまま先延ばしにするだけだ。
自殺するのか、否かという問いを保留する期限が切れてしまっていて、「自殺」という大事にしていた切り札が手札の中からなくなってしまっていた。

その瞬間、現実と目が合ってしまった。すこし陳腐な表現かもしれないが、本当にそんな感覚だった。

その視界から逃れたくても、その目は私を逃がさなかった。

まわりを見渡しても隠れられる場所なんてどこにもなかった。

そこにいたのは社会的にはなんのステータスもなく、生きる術を持たない丸腰の自分だった。
あるいは丸腰よりも頼りない状態であったかもしれない。

話が変わってしまうが、ひきこもっている間、私は散文や詩を書いていた。

書くという行為は、変化のない毎日の中で窒息してしまわないために必要な息継ぎのようなものだった。

また、何かを選択(食べものも着るものを選んだり)する機会のない自分にとってささやかな自己表現でもあった。言うなればそれだけが自分がこの世にいる唯一の証のようなものだったかもしれない。

そうやって書いたものを、少なくとも一日一回は読み返していたし、写経のように手書きで複製もしていた。そのような行為が自分を保つためには必要だった。書いたものは自分を支えてくれる重要な支柱だった。

しかし、24歳のとき、つまり現実と目があったと感じたときあたりから、1つの疑念が生まれて、それは止まることなく膨らみ続けた。

「自分が書いたこの文字は、この言葉は他の誰かに伝わるのだろうか?」

「もしかしたら、自分はありもしない言語で、ありもしないことを書いているのではないだろうか?」

ひきこもっていた13年間の間、家族以外とはほとんど話したことがなかったし、家族とでさえ会話というものは限られていた。

自分は気がおかしくなっているのだろうか。

確かめたくても確かめるすべがない。

「私はおかしいですか?」「これは私が書いたものなのですが意味がわかりますか?」

なんて聞く相手もいなかったし、いたとしてもそんなことを聞いた時点で怪訝な目で見られるのがおちだった。

唯一の拠り所であった自分の言葉が信じられなくなったとき、世界がひどく歪んで見えた。

大事に大事に抱きかかえていた赤子がただの人形であったことに気が付いてしまったようなショックがあった。

自分が書いたものを何度も何度もすがる思いで読み返すのだけれど、視線は言葉の表面を滑るだけで、意味が読み取れない。

そこにあるのはただの文字の羅列にしか思えなかった。

脂汗は出るし、震えが止まらなかった。

このままでは本当に気がおかしくなってしまう。

恐怖しかなかった。

一刻でも早く外にでなければと思った。

そのために私が最初にしたのは、自分がノートや紙に書いてきたものを庭で燃やすことだった。

そうしないと、次に進めない気がした。

恐怖がピークを迎えるなかで、私は両親に自分の状況を伝え、父が知っていた当時宮崎にあった自立支援アパートというところへ移ることになった。

宮崎に行ったのが6月ごろだったのだが、その年の始めごろはまさか自分が外に出るなんて想像すらしていなかったし、想像できるはずもなかった。

外に出るとき、決してポジティブな決心や意志があったわけではない。
どうやって外に出たの?と尋ねる人たちが期待するようなドラマはなかった。

外に出るのは死ぬほど怖かった。
でも、それよりも気が狂いそうなまま、自分の部屋の中に居続けることの恐怖が勝った。
死ぬことができるのは自分が存在するからであって、死ぬ前に自分がバラバラになってしまったら、その死には何の意味もなくなってしまう。
そのことが本当に怖かった。

鹿児島から宮崎へと移動する日は雨が降っていた。
親が運転する車の中から、窓ガラスの向こうで輪郭を滲ませた世界を、私は緊張しながらじっと見つめていた。

このようにして私は家を出た。

             

       ひきこもり歴13年から今にいたるまで①
                                おわり


今回は、13年ひきこもっていた家から外に出るときのことを書いてみました。

振りかえってみて思うのですが、

「思えば遠くへ来たもんだ」

東京て、自分。

ほんとうにびっくりです。

これから少しずつ、ひきこもっていた当時から今にいたるまでを書いていきたいと思います。





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