選んだからには正解にするしかない
昨日の大隈塾は、白井智子さんがゲスト講師だった。
白井さんは、フリースクールの界隈で大活躍している。
東大法学部卒、フリースクールNPOの代表。
なぜ?
と思うのが普通だろう。
4歳から8歳まで、オーストラリアのシドニーで暮らした。
地元の小学校で、わりと自由に、長所を伸ばす教育を受けた。
勉強ができるできないも大事だが、
長所の先に、この子の生き方働き方がある、という育て方だった。
日本人学校とは違う教育を自分が受けていることは、知っていた。
日本に帰国したら、真反対の教育になった。
長所は放っておかれ、短所を詰められた。
勉強ができるできない、が大事だった。
あっそ、と思って勉強して東大法学部に入った。
夢は、日本の教育を変えること。
そのために、文部省にいくことも考えたが、
「事務次官になるしかないよ」
といわれた。事務次官になるまで、30年以上かかる。
松下政経塾に入ることにした。
松下政経塾は、自修自得、現地現場主義で、
しかも給料が出る。
現場を知りたい、しかも、お金をもらいながら。
ということで、政経塾の現地現場主義にのっとり、
千葉の小学校の門をたたき、校長先生に談判。
許可を得て、小学校の5年生になった。
2ヶ月間、ほんとに5年生といっしょに授業を受けた。
担任の先生もほかの先生たちも、5年生としてあつかい、
同級生たちは「なんか変だな」と思いながらも、
おもしろがってつきあってくれた。
ドリルをさぼってたら、「ちゃんとやんなきゃダメだよ」と同級生たちからたしなめられ、
ごめんね、と、ちゃんとやったらみんなは驚愕、どよめき。神と崇められた。
東大法学部だもの、小学5年生のドリルなんて。
5年生の2ヶ月が終わったら、4年間で国内外100校ほどの
小中学校を巡った。
そして、「学校」からはみ出している子どもたちが
こんなに多いのか、と知った。
たとえば、不登校の子どもたちは10万人を超えていた。
白井さんは、日本の教育を変えるという夢への一歩として、
学校をつくることにした。
1999年、沖縄のフリースクールの設立にかかわり、
そのまま校長になり、
地元の大阪でNPO法人トイボックスを立ち上げ、
公設民営のフリースクールを世の中に知らしめ、
そのあといくつもフリースクールを立ち上げ、
新公益連盟という、社会的企業やNPO100団体の代表を勤めている。
白井さんの夢への一歩を支えたのは、
ひとつは、松下幸之助の言葉だった。
「夢があるなら語りなさい。そうすれば、応援してくれる人が現れる」
それは偶然に過ぎないかもしれないけど、
語らなかったら、誰にも声は届かず、
偶然の出会いすら起きなかったはずだ。
夢を持て、というのは夢ハラスメントかもしれない。
持ってるでもいいし、持ってないでもいい。
夢を持ちたくても持てない時期もあるし、環境もあるから。
だけど、持とうとしないのは、わたしは好きではない。
夢は行動しないとみつからない。
逆にいえば、行動すると夢は見つかる。
行動は、白井さんみたいに、とこかに飛び込むという行動もあれば、
本を読む、というのも行動のひとつ。
松下政経塾の場合は、現場主義だし、
大隈塾の場合は、プロジェクトをつくって体験する。
そこで何か小さいことが見つかったら、
それがやりたいことであり、それが夢であり、
自分の軸かもしれない。
わたあめ理論だと、それがわりばしになる。
白井さんを支えたもうひとつは、
先はどうなるかわからないけど、
苦しくてもなんとかなるから、やってみよう、という覚悟。
「フリースクールで稼げなくても、
アルバイトをすれば生きていける、と思った。
当時は一人だったからね……」
いまはお子さんが3人いる。
いまのこの状況だったら、と言葉には出さないが、
伝わってきた。
やれるときにやっててよかった、
とも言葉には出さないが、伝わってきた。
覚悟がきめられないというのは、
あるいは、夢を持っていても、それでも語れないのは、
失敗したらどうしようか、と思ってしまうから。
成功するか失敗するか、誰にもわからない。
白井さんは、
「答えのないものに対して、自分がどう向き合っているか。
答えのないものに対して、自分がどう責任をとるか」
といった。
選んだものを正解にするしかない。
選んだからには、正解にするしかない。