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自分の価値を自分で決めないでくれ。

自分の価値は自分で決める

というのはよろしくない。こんな主張も認めてしまう。

  • 私はたくさん人を殺したが、私の価値は私が決める。私は偉い人だ。

こんな馬鹿馬鹿しい話があるか。そんなやつ偉いわけが無い。

よく自分の価値を見失った人が、「自分の価値は自分で決めれば良い」と考えてしまっているのを目にするが、それは間違っている。そんなのただの独りよがりだ。そんなやつのどこを社会は評価すればよいのか。開き直ってはよろしくない。こう考えてほしい。

  • 私は社会にとって善いことをした。だから私は善い人間なのだ。だから私には価値がある。

社会が善いとすることができていればあなたは間違いなく善い人間だ。「挨拶はしっかり行う」でも、「時間は必ず守る」でも「健康的な生活をする」でも、「約束を守る」でも、社会はそれらを「善」としている。だからそれができるあなたは「善い人間」といえる。

社会にとっての「善」は、例えば経済を回すことだったり、ゴミを減らすことだったり、被災地を支援することだったり、街の美観を整えることだったりするのかもしれない。あなたが明るくなったなら、それは社会にとっても「善」であろう。

別に難しいことではない。いつもやっていることかもしれない。皆何かしらやっているものだ。だからきっとあなたにも価値がある。

「善悪」VS「損得」VS「優劣」

自分の価値を見失ってしまうのは、価値判断基準が「善悪」に無いからだ。つい収入や容姿、交友関係の広さ、学歴なんかに価値を見出そうとしてしまう。しかしそれらは「善悪」というよりも、「損得」や「優劣」といった基準である。

別に貧しくても良いし、人より何かが優れてなくてもいいじゃないか。「損得」も「優劣」も比べだしたらきりがない。そんなことよりもまず「善い人間」であれば良い。

「善悪」よりも「損得」を優先する人はずる賢い狡猾な人間に、「優劣」を優先する人はすぐにマウンティングする見苦しい人間になってしまうだろう。

資本主義は「損得」を、競争社会は「優劣」をつけたがるが、毒されてはいけない。人間社会は「善悪」なのだ。

だから価値判断基準は「善悪」にしなければならない。あなたの善行を周りの誰かが褒めてくれなくたって、社会は認めているはずなのだ。社会が認めない「善」なんて、そもそも「善」ではないのだから。

「善悪」で判断していけば、堂々と胸を張って生きていける。そうして自信を取り戻そう!


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