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母も弱し。

ない。
何回見ても、アイスがない。
洗濯機をまわし、掃除機もかけ終えて、皿洗いが終わったら食べようと思っていた。
たぶん先週食べたのが最後のひとつだった。

疲れた。
頭を巡るのは不平不満ばかり。
私は私以外のつらさをわかり知ることができないし、その逆もまた同じだ。
「当たり前」という言葉で片付けられそうなそれらは、ずっと私の中でウヨウヨとうごめいている。
言われてもいない苦情を想像しては、以前言われた言葉の節々を思い出し、職場、教育者、役所、家族が私に抱えるだろう不満や異議に勝手に辟易している。
ちょっとのことで、ものすごく苛立ってしまう。
したいこと、しなければいけないことが、二人分あるのに、進まない。

「おかしい」「しかたない」「じょうしき」とは便利な言葉で、これを口にし合えばそこには共感が生まれ、排除が生まれる。
ほんとにそれでいいの?
それってほんとに「おかしい」?
「じょうしき」だからなに?あなたの考えはないの?
「しかたない」からこのままでいいの?

なんて、思ってるだけで私だってなんにもできていない。

共働きの子育ては、想像していた以上の壁がいくつもあった(現在進行形)。
「私の考え」だけではまかり通らないこともたくさんあるのに、「私の判断」にほぼすべての責任を押し付けられているような気さえする。
罪悪感と、申し訳ありませんという言葉に、どれだけお世話にならなくてはならないのだろう。

物理的には母親だからなのか、甘えはあまりヨシとされない。
みんな言葉はやさしいけど、いざというときは冷たい。
私もそうやってきたのかもしれない。
誰かのつらさなんてやっぱりわからない。
「母親なのだから」と言われてしまうとニコニコするしかない。
「母親になりきれていないのでは」「母親失格だ」「私は人間として大丈夫なのか」と悩んでいても、私は母親だ。
既婚の子持ち男性に「母は強しでしょ」とさらっと言われたときには、あぁこの人は子育てしてこなかったんだな、奥さんのこと見てないんだな、と思ってしまった。奥さんはそんなこと気にしないかもしれないけれど。

母である先輩方は、ご自身が「今より社会が子育てに寛大ではない時代」に「あなたよりもっとひどい環境で」子育てをされ、「仕事を辞めずに働けるのはありがたい」から、「育児を理由に仕事を辞めるのはもったいない」と言うくせに、ひどく冷酷だ。
だから、「きっと私が羨ましいのだろう」、とこちらもやんわりとしたひどい言葉をもって割り切ることにした。
少なくともコロナ禍で育児生活を過ごしたことのない「先輩」の自慢話など聞きたくもない。

こうやって、私が嫌いな言葉を、私も誰かに使っている。
ひとつの情報で、その人を勝手に判断したりすることもしている。
立場が変わったら、私も彼女たちも彼らもきっとわかるのに。
みんなそれぞれ、自分のつらさを認めてもらいたいだけなのに。
つらさは、わかってもらおうとするほうがつらくなるときがあるから、変な方向いっちゃうんだよな。
自分を許して相手を許せる余裕がほしい。

余裕を得るには休息が必要だと思うのだけど、休息をとるというのもまた難しい。
睡眠をとることだけが休息なのではないし、ぼーっとしているときはすべてが停止になっているだけで休息にはならないし。
アイス食べたかったなぁ。

愚痴ばかり言っていないで、もっと私にもできることを探していこう。
これからも子の尻の穴の匂いを嗅ごう。
毎日子をどれだけ笑わせられるか、それを忘れずにいよう。

アイスがないので、ピーチミルクティーを飲みます。ピーチミルクティー、名前がかわいいので満足です。