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小津夜景『いつかたこぶねになる日』感想

小津夜景『いつかたこぶねになる日』をチビチビと2ヶ月くらいかけて読み終えた。
読み終えてもう一度ペラペラとページをめくってみると、6割くらい内容を憶えていないので、なかば夢の中で読んでいたのかもしれない。
小津さん自身はこの本を、「漢詩を、みつくろい、私流のつきあい方を一冊にまとめた本」と紹介している。

小津さんは、遊んでいる。
漢詩で遊び、俳句で遊び、今住んでいる南仏の風土や文化で遊び、人と遊び、耳慣れない名詞で遊び。
読みながら、この人はどう生活しているのだろうとチョイチョイ考えてしまうのは、私が今生活に追われているからかもしれない。
しかし確かに、生活「感」を感じさせるものを意図的に極限まで伏せてあるとは思う。そこにフランスに住みながら中国語の詩の本を日本で出版するにあたっての強い意図があるだろうと思う。

しかし風天のようにブラブラしている話の中に、いきなり地に足がついた哲学が出てくる。

「おそらく考えるとは、気の遠くなるほど大きな考えに至らない波の
あわいを漂流し、塩水を飲んでは吐き、自分という意識さえも失った果てに未知の岸に打ち上げられるような冒険である。」

「詩とは誤謬の創である。創をつくる。そのとき世界はあらわれるだろう。逆から言う。傷をつくることでしか世界はあらわれないだろう。
創造とはつまりそういうことだ。」

ヒンヤリとした触感の鮮烈な言葉で、ありがたくいただくことにする。

漢詩は、どう読もうかと迷っているうちに読み終えてしまった。

とにかく分からないまでも漢字を追ってから小津さんの訳を読むか。
小津さんの訳を1行読んでから漢詩を1行読むか。
小津さんの訳をすべて読んでから漢詩を読むか。

どれか読み方を決めてからもう一度通読したほうがよさそうだ。
とにかくすこしだけおもしろいと思った良寛の漢詩を替え歌にして、理解を試みた。

知我療非療
始可与言療

私の治療が治療でないと分かる人こそが
はじめて私と治療を語ることができる

たこぶねになる日は遠そうだ。


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