日常と旅は、いつでもつながっていると信じたい
どうしようもなく日常から離れたくなって、仕事終わりにひとりで新幹線に乗った。16時48分東京発。フレックス退社をしての移動で、21時までに宿泊先に着くのが目標だ。いくつかの打ち合わせには出られませんと事前に連絡し、珍しくスーツケースをひいて歩いている。
落ち着いて休めばいいのに、せっかくなら数日旅行をすればいいのに。そんなふうに言われることが多いけれど、日常に風穴をあけることが、観光をするよりも私にとって大事なのだ。日常の延長に旅があると確かめて、少し呼吸が整うのを感じるだけでいい。
昨日は、ぐったりと疲れていた。帰宅間際にミスをしたような気がして帰宅中はずっと引きずり、そのまま眠ったら部長が夢に出てきた。私は彼のiPadを落として画面を割り、それをひたすら謝る、そんな最悪の夢だった。仕事が嫌いなわけでも、今の生活に満足していないわけでもない。でも、少しでも休みが取れそうだとどこかに飛び出してしまう。どうして、日常をゆっくりと受け止めて馴染んでいくことができないのだろう。
新幹線で窓際に座った人が、もうビールを飲んでいる。私も買って来ればよかっただろうか。無事に宿に着くまでは気が抜けない。今回行くのは三重の伊勢市で、早朝からのお参りに備えるためにタクシーを使わざるを得ないし、アクセスのいい場所とは違って、少し慎重にならないといけないから。
その代わり、今夜はゆっくりと温泉に浸かろう。ひとりで家に残してきた彼には申し訳ないけれど、一足早くお休みの気分を味わうつもりだ。明日は午前中は有給休暇で、午後はフレックス。必要に迫られた3時間しか働かない。
彼氏に借りた黒のスーツケースは、タイヤが安いのかザアザアとやたらと大きな音を立てる。いつもは何泊でも海外でもバックパックなので、早く歩きたいときに扱いに少し困る。今回は会社の人のお通夜が入って、どうしても荷物を増やさないといけなかったのだ。黒服にくつ、帛紗や数珠を詰め込んで、私は自分のための旅行に出る。念の為にと買っておいた暗い髪色のウィッグも入っている。日常に、少しずつ亀裂が入る。
お作法も、親族の式で身につけた未熟なもので、初めての会社関係者の式を恐れている自分もいる。来週には、祖父の一周忌がある。来月は、祖母の法事が。私は最近、九月が少し怖い。いろんなものを奪っていく月。今伊勢神宮を訪れたくなったのは、そこが47都道府県で唯一宿泊したことのない県だという理由以上のものがある気がしてくる。とにかく、私はあの森をもう一度目指さなければならない気がした。
人の死というのは、日常の大きすぎる亀裂になる。私は祖母が死んだ後、しばらく思考することが怖くなった。考えようと頭を空に近づけると、急速に悲しみが流れ込んでくるようにあんったのだ。料理をしながら、シャワーを浴びながら、眠る直前。いつも私を落ち着けていたはずの時間が、恐ろしいものに思えた。
しばらくして死から遠ざかった日常に浸かろうとしていたとき、今度は急に祖父が死んだ。あんまり突然で、そしてあまり語らない祖父だったから、悲しみの波は以前より穏やかだった。ただ、父の大きな目の脇が真っ赤になって、時々母がその腕に優しく触れるとき、私は涙はちっとも枯れていないと知った。
私はこの旅で、日常を切り裂きたかったのではない。ゆっくりと息のしやすい場所と繋げたかっただけなのだ。あるいは、自分には逃げる場所もいくつもあると、わかりたかったのだろう。それが、会社と繋げられ、あるいは家族の死と繋がって、こうやって私の日常から漏れ出た川が大河のように私の進むべき方向にと変わっていく。
10年ぶりの三重。今の私を包んでくれる街であれば嬉しい。