褒めないとかいう教育
子育て、学校教育、部下との接し方で、褒めてはいけない、という考えがあります。
聞いたことがある人も、多いのではないでしょうか。
アドラー心理学と言う、そこそこためになる学問が、そう提唱しているのです。
難しい文章は、なるべく出さずに、批判していきます。
なんだか「褒めてはいけない」という言葉が一人歩きしていますが、本質はそこじゃないと思うのです。
なぜ褒めてはいけないのか
アドラーは、賞罰や、飴とムチで、他人をコントロールすることを非難しています。
手伝いをしてくれた子どもに、もっと手伝いをして欲しくて「偉いね」と言ったり。
雑用をやってくれる真面目な生徒を利用したくて「君は手伝ってくれて偉い」と言ったり。
サービス残業に不満がある部下に、下心から「君のおかげで、会社は持ってる」と言ったり。
褒めてはいけない、のではなく下心から世辞を言ったり、愛想をついてはいけないのです。
この意見に関しては、真っ当なものだと思います。
褒めるを誤用している
日本における、アドラー心理学の第一人者、岸見一郎氏は『嫌われる勇気』という本の中で、以下のように述べます。
褒めるという言葉を誤用しています。
ネット辞書で意味を引いてみましょう。
ネット辞書の中でも、「コトバンク」「Weblio」「goo辞書」は、『大辞林』『大辞泉』が元になっていますので、適当なことが書いてあるわけではありません。
確かに評価する意味はありますが、下心という意味はありません。
そしてアドラーの非難は、下心による他人のコントロールが本質です。
それには、もっと適した言葉があります。世辞、愛想、おだてるです。
アドラー心理学における、褒めてはいけないは、正確には、(相手をコントロールする目的で)世辞や愛想を言ったり、おだててはいけないとなります。
第一人者の例え話を両断
岸見氏は、ブログの中で、褒めてはいけないことの例え話を出しています。
一瞬、確かに……と思いましたが、いや、ちょっと待った!
私からも一つ例え話をさせて下さい。
ハイハイが出来る大人を褒めることはありませんが、赤ちゃんがハイハイ出来るようになったら褒めますよね。
自転車に乗れる大人を褒めることはありませんが、小さい子どもが補助輪を外せるようになったら褒めますよね。
大人と子どもは、人として同等ですが、能力、経験値には、差があります。その差をあるがままに観察するのは大事ですし、それをあるがままに評価することは悪い事ではありません。
ほとんどの大人は、TPOをわきまえて、黙ることは自然とできます。
三歳の子にとって、大人しく待つことが必ずしも良いこととも思えませんので、私なりの注釈を入れますと。
(子どもが騒ぐと恥ずかしい、これからも黙ってて欲しいから)
「静かにできて偉いね」というのは世辞・愛想。大体言葉だけで態度は不愛想か、嘘っぽい笑顔でしょう。
(遊んだりおしゃべりしたいだろうに、黙れるなんて)
「すごいじゃーん、ウェェェェェェェイ」というのが褒めです。アメリカ人なみのオーバーリアクションになります。なんなら、子どもが黙ったというのに、おしゃべりを持ちかけています。大声でなければ、子どもには喋っていて欲しいので、ちょっかいをかけます。
第一人者自身、アホなこと言ってる
岸見氏自身、このようなことを言っています。
下心が無ければ、ほめ言葉にならないと断言してるのがポイントです。
ごちゃごちゃ言ってますが、皆さん、岸見氏はコミュニケーションがヘタなんですかね……。
人と会話をする時、いちいち「その言葉を、どう受け止めましたか?」「どういう言葉をかけるのがいいと思いますか?」なんて尋ねます!?
すれ違いが起こった時は大事ですが。そのときくらいです。
上記の引用文はややこしくないですか?
褒めるのは良くないけど、下心が無ければオッケーで、フィードバックをするべきで、ほめ言葉も杓子定規で使用禁止という訳じゃない。
褒めるを誤用してるんです。だから、ややこしいんです。
愛想・世辞・おだてると言う、適切な言葉があるのです。
本質は、下心をもって世辞を言ってはいけないことなのです。
辞書を引いた限り、褒めるには、下心という意味はありません。
言葉の意味は、時代とともに変わるものですが、過去の日本人、現代日本人の多くが、褒めるをそう認識しているから、辞書にはそう書かれているのだと思います。
私は、アドラー心理学の「褒める」は誤用であると、真剣に提言いたします。
下心ない、正直さが本質
繰り返しですが、下心なく、正直に話しかければ良いのです。褒めても良いのです。
1歳の子どもが初めて立ち上がったとき、思わず「すごいね」という。それが良いことか、悪い事か自問する。下心があったか無かったか振り返る。相手に言葉の意味を、何度も確認する。
そのコミュニケーションは自然でしょうか。