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可哀想という言葉狩り

 可哀想と言う言葉。
 この言葉には「あなたは可哀想です」という決めつけや、上から目線という捉え方があり、失礼で注意すべき言葉であるらしい。

 ですが、大人に怒鳴られている子どもや、学校でイジメにあっている子どもがいたら、可哀想だとは思いませんか?
 私は、そう思いますし、それを可哀想だと思う感性は、大事だと思います。

 言葉狩りされた「可哀想」の本来の意味を、考察していきます。
 まずは辞書にある、可哀想という言葉を確認していきましょう。

可哀想

 ネット辞書ですが「コトバンク」「Weblio」「goo辞書」は、『大辞林』『大辞泉』が元になっていますので、適当なことが書いてあるわけではありません。

 可哀想は『同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。』と出てきます。
 第一の意味は、同情の気持ちが起こるさまで、第二ふびんに思えるさまです。

 公園で転んで、膝を擦りむいて泣いている子がいたら、「かわいそう」と思います。
 あなたは、思わないですか?

 世の中、第一の意味を無視して、第二の意味にばかり注目させるような風潮があります。果ては、存在しない意味を付け足すことも
 可哀想という言葉に、そもそも見下す意味はないです。
 本来の意味を無視して、単語を毛嫌いするのは止めませんか。

別の言い方

 幻冬舎さんの記事で、かわいそうという言葉は失礼として、呆れ返るような別の言い方を提案しています。

「かわいそう」「偉いですね」「遅くなりました」「だから」「疲れていませんか」……。みなさん、こんな言葉を口にしていませんか? 実は、これらはすべて「失礼」な言葉。気づかないうちに相手を傷つけたり、怒らせたりしているかも……。

 例えば、「この間、姪が高校受験で第一志望の学校が不合格だったんだ……」などと聞くと、「えー、かわいそう!」というのです。
「かわいそう」という言葉には「残念ながら今のあなたは、とても哀れで不幸です」という烙印を勝手に相手の未来に押しつけており、余計なお世話であると私は常々感じています。

 相手の心に寄り添う言葉を選ぼう
 
相手の辛い出来事を聞いたときは、「それは本当に残念でしたね」「ものすごく大変だったと思います」「とても辛かったでしょう……」など、その人の気持ちに心から寄り添うような言葉を投げかけられる人でありたいものです。

「かわいそう」は上から目線の言葉…相手の心に寄り添う言葉を選ぼう(幻冬舎Plus)

 !?
 相手の心に寄り添う言葉!?
それは本当に残念でしたね
ものすごく大変だったと思います
とても辛かったでしょう……

 相手を残念だと決めつけ! 大変だったと決めつけ! 辛かったと決めつけてんじゃねーか! かわいそうと何が違うんじゃボケえ!

 かわいそう以外にも「偉いですね」「遅くなりました」「だから」「疲れていませんか」も、失礼な言葉で、気づかないうちに相手を傷つけたり、怒らせたりしているかも、しれないそうですよ?

 はい、言葉狩りです

「かわいそう」という言葉には「残念ながら今のあなたは、とても哀れで不幸ですという烙印を勝手に相手の未来に押しつけ

 えー……辞書にない意味ばかりです……。
 しかも、ここでは残念という言葉を否定しておきながら、相手の心に寄り添う言葉(笑)として、「それは本当に残念でしたね」を提案しています。

 可哀想という同情の気持ちが、トンチンカンだったとします。
 でも、見下してやろうという意味で使ってる人は、まずいません。
 見下して可哀想なんて言ったこと、人生で記憶にねえんだ!
 あなたも、ないのでは?

言葉狩りの見抜き

 言葉狩り誤用を見抜くコツがあります。
 ネガティブな意味の追加ネガティブな意味のブーストポジティブな意味の無視などです。

 可哀想は、確かに決めつけですが、辞書に「思えるさま」とあるように、ただの感想です。しかも、自分の中での「思えるさま」であり、相手を決めつけてはいません。
 私は、転んで血を流し泣く子どもを見たら、辛いだろうと自分の中で決めつけて同情してるわけです。なんなら不憫だとも思います。辞書通りの意味です。

 なのに見下すという、辞書にない意味を追加したり、同情という意味を無視したり。思うさま、という感想を、相手への決めつけ、と拡大解釈したり。

 言葉について、ネガティブな新解釈が出てきたら、辞書を引いて下さい
 そんな意味はありません

誤用で衝突

 可哀想という言葉に、辞書にはない見下しと言う意味を追加しましょう。
 相手は、見下す気持なんかこれっぽちもないのに、心が反応して、相手と衝突します。
 可哀想と聞いて、心がむかむかします。

 言う側としても、辞書にない意味で、相手の心が乱されては、寝耳に水というものです。

 トンチンカンな可哀想という決めつけを、相手が言葉にしたとして、ただの感想に、振り回される必要はありません

イジメられている子どもは可哀想じゃないですか?

 泣いている子どもや、怒鳴られている子どもに可哀想だと思う感性は、あなたにもありませんか?
 可哀想だと思う感性は、大事だと思います。

 相手の境遇がどこまで想像できるかも大事です。
 悲しんでいるけれど、無理して笑ってる人に、楽しそうだねと言ったら、相手は深く傷つくかもしれません。
「分かってもらえないんだ」「表面の笑顔だけ見られて、悲しみが伝わってないんだ」つまり、同情できてない訳です。

 このシチュエーションで「楽しそう」という言葉は、極めて不適切ですが、「楽しそう」という言葉を狩るべきではありません。

 可哀想よりマイルドな表現もあります。
 ドンマイ、気にすんなよ、肩をポンと叩くなど。
 でも、イジメられている子どもに、そんな言葉を投げかけるのも、不適切ではないですか?

 可哀想でない人に、可哀想と言うのは、確かに不適切です。同情が出来ていません。確かに自分を分かってもらえず、不快かもしれません。
 でも、可哀想じゃないのなら、流しちゃいましょう。

気軽な言葉じゃない

 私の中で可哀想のハードルはそこそこ高いです。
 気軽には使わないのです。
 可哀想だと思う状況は、イジメ、中傷、暴力、恐喝、強要、窃盗、不幸など。

 そして、可哀想だと思ったら、できればで良いので、行動し、助けましょう

 気軽に可哀想と言ったり、口先だけで行動が伴わないなら、それほど薄っぺらい同情もないでしょう。


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