掌篇小説『盃』
男の、岩のように膨れあがった顔を見て、女は、おどろいた。
「その顔、どないしはったん……可哀想に」
男は昨晩、いつにもまして酒を呑み、何処かで顔を、ぶつけてしまったらしい。当人に記憶はない。他に傷も痛みもなく、ただ顔だけが、何かの捺印の如く、満遍なく赤く、腫れあがっていた。殴られたか、とも思ったが、それにしては圧され加減が、満遍なさすぎる。
男は、躯にアルコールの沁みていない時のない酒好きであったが、酒で浮世を離れ、陽気になるというのでなく、寧ろ逆に、呑むほどに、自身に根づく悲愴な思考のなかに閉じ籠り、独りぼっちの幼児の如く、不安が募り、守宮(やもり)の如く四本足となり、床に壁に、テーブルに、あるいは女性の肉に、融けこむように、しがみつくのだった。酒で態度やうごきをおおきくするのでなく、うごかず己の脆弱さを晒し、何かに己をはりつけにすることで、安堵らしきものを得る、そんな人間だと、自身でも思っていた(顔も、両の眼がやや離れているので守宮に似ていると、誰からも言われないが思っていた)。
それが、顔をいきおいよくしたたか打つほど、おそらく無防備に跳ねていた、というのが、男にしてみると、痛みよりも可笑しさのまさる出来事であり(顔が腫れ、爬虫類の膚の質にちかづき、眼もよけいに離れて見えたのも、また可笑しく)。女は、よほど男が痛々しく見えたのか、男の顔にじかには触れず、治癒の波をおくるかのように、手を、かざしていた。儚げにほそい指が、まねくみたいに揺れ、あまく薫る。
女もまた、酒の沁みていない時のない、呑まずにいられない躯だという。女から酒の匂いを覚えたことはいちどもなかったので、男には信じ難かったが、
「よわいから、すこしの量でも酔ってしまうの。奈良漬いち枚でも、ブランデーの沁みた洋菓子ひと粒でも、貴男の御口の匂いでも……」
と、秘めごとを囁く風な、しかし妙に耳に沁みとおる声で、言う。女が格別酔って見えたことも、男にはいちどもなかった。男にかざす、儚い指のすきまから、女の、不安げにさがる眉が見えた。
呑むほどに、汗が糊の如くねばる四本足でしがみつく守宮となってゆく男とは真逆に、女はうす暗い土間にいようと、閉めきった座敷にいようと、常に、涼やかな風のふく奥行きある眺めや、陽の光といった開放的なものを、ふわりと、膚に心に、感じさせた。たとえ男と床にもぐりこみ、女の何もかもが塞がれていたとしても、何処からともなく、澄んだ空気と薫りがわたるのを、男は感じた。
はじめは、男への拒絶が無意識に顕れたものか、と思ったが、そうではなく、それが(酒の沁みた?)女の芯からの、有り様らしかった。女にある光、たとえば、潤む眸や、すこしひらいた唇から見える、艶めく舌、果てには、枕もとにおかれた簪の翡翠玉までも、河のせせらぎにかがやくものとおなじで、悦ぶような、哀しむような眉や、指さき、なげだされた黒髪は、たえず風をふくんだもの、柳の緑や、鳥の羽などにちかい、質感なのだった。
「今日はもう、呑んだらあかんで。今からどれだけお酒我慢できるか、くらべっこしよ」
女はそう言って、男を外につれだした。迷路の如き街の路地をすいすい、女に手をひかれ、女のうみだす風をうけてゆく。存外に女の足ははやく、電信柱、木の外壁、石塀、ペンキの剥げたポストといった曲がり角で、身を切られるか、また顔をぶつけそうになる。それでも街の壁は、守宮である男には拠りどころであり、女の、ほそくも融けこむような手の感触とともに、どこか安らぐ。
……しかし、ふいに、それらすべての壁がとつぜん途切れ、湖が、ひろがった。向こう岸などない、海原のようにひろい湖。女に指を離されても、風は右から左から、からかうように撫でてくる。守宮男にはまず縁のない、というより避けている場所ゆえ、今ほとんど酔いが醒めているとは言え、澄みきった水でも、漆黒の宇宙に投げだされたが如く、こわく思えた。この世をとうにおさらばした後の光景か、と、くらくら。赤い岩の顔に、湖の風がさむい。前歯も風に揺れた。
「ええ風やわ。傷もすこしは早よ治るやろ」
男の掌は、凍えながらねばついてゆき、ほんとうは女にしがみつきたかったが、こらえた。ふるえも。女にしてみれば、こちらの方が庭であろう。女は敢えて、守宮男をここにつれだしたのかも知れない。
女は独り、土手をくだり、水辺へ。夕陽に艶めく後れ毛。湖にも海のような波が打ち寄せる。女はかるく跳ねる。足袋の白が光って、袖と、指が、舞う……水辺の女は、曖昧な喩えでなくいよいよ、羽をのばした水鳥、そのものとなってゆく。しなやかな肢体は鶴に似るが、白と緋紅色を纏った、晩春の見知らぬ、水鳥である。……あれで今も、酒に酔っていると言うのならば、酒は女をいっそう、美しくたおやかにさせる妙薬であるとしか、思えない。
女はいきなり、水にはいっていった。裾をかるく捲りこそするが、甲斐なく濡れてゆく。捲られ漏れた襦袢の浅葱色が、水面にも映り、ふしぎな長い尾をひくかのように見える。女は男に背をむけ、水をかき、どんどん進む。離れてながめると、小指のようにかぼそい後ろ姿が左右にくねり、飛沫をあげる。それは水鳥の自然な遊泳にも、狂女の舞いにも思え、男は混乱した。土手をころげおち、下駄をなげ、水にとびこんだところで、女は、立ちどまる。両手で湖の水をゆっくりとすくい、口に、そそぎこんだ。ゆるやかだが、迷いのない様子。しかし、掌でうまく呑みきれず、零れてゆく。濡れた横顔は、感情の読めない静謐さをたたえ、そのうえをほつれた髪が、ざわざわと、這っている。着物に描かれた草木瓜の花が、先刻より色濃く、ふくよかに咲いている。女は男を見て、微笑む。唇をかざる水玉が煌めく。眉はまだ不安げでもあり、洗われ悦ぶようでもある。
「湖が、酒に見えて……私が小人になって、おおきな盃から、溢れる酒を見てるような気がして……思わず、呑んでしもたわ。……私の負けやね。貴男の中毒も、たいそうなもんや、ないわ」
………この女と、生きたい。男は思った。
守宮と水鳥の、あわぬ夫婦かもしれぬ。留まり融けることしか知らぬ臆病な守宮が、水鳥に憧れまねて跳び、また何処かに顔をしたたか打つやもしれぬ。水鳥の躯を守宮は何時までも、ざわざわと這いまわり、果てにはしなやかに舞わんとする羽に齧りつき、喰いちぎるやもしれぬ。それに……
女と結ばれようとする、それだけで、数々の犠牲をはらわねばならぬ。それでも。この女に。赤い岩の顔となり両の眼がいっそう離れた日には、女のかがやきに照らされ歩きたい。不安に潰されそうな日は、その肢体が、指が髪がまねく涼やかな風にふかれたい。傷が癒えてゆく過程を、その潤む眸の鏡だけに、知られてゆきたい。そう思った。
もう一時とあけず、女の側にいたかったが、女と夫婦になるため、岩の顔をありとあらゆる人物に披露しながら、身辺の整理にかけまわり、気づけば三日も経ってしまった。腫れが三分の二ほどになった顔を、女は喜んでくれるだろうと夢想しながら、戸を叩いた。女は出てきて、男の顔に、儚い指を、かざし。
「その顔、どないしはったん……可哀想に」
©️2021TSURUOMUKAWA
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朗読+演奏『盃』るりんかるりん(武川蔓緒+伊吹清寿)