短篇小説『ゴールドフィッシュ・ブギー』(6/9加筆)
金魚鉢の街で。
すこし肌寒い水。今日は。
結婚式だろうか葬儀だろうか、忘れてしまったしどうだっていい。ただ黒のスーツとかワンピースとか着物とかが佃煮ほどいっぱいいて、みんなうごく度わらう度肌寒い、ちょっとカルキくさい水が揺らめいて。おおきな泡を団子みたいに浮かせて。
泡ふいてみんな気絶するか、皮膚呼吸のやり方忘れて溺れ死んじゃえばいいのに、って思う。何処の誰が結ばれようが孕もうが寿命を全うしようが非業の死を遂げようが、鉢の底、じゃなくって心の底からどうだっていい。
黒服の群に、あたしの叔父様はすぐ融けこむか、遠くへはぐれていってしまう。
そう、いまはカボンバの並木が緑の綿毛みたくユラユラした鉢いちばんのガラス大通りを、みんなで歩いて帰路についてる。水流のせいか、さっきの宴会場の酒のせいか、みんな地のガラスから革靴やヒールや草履がちょっと浮いてて、陽氣。
あたしの前方で、男たちは木の棺桶らしいのを半ば胴あげみたく声あげて泡散らして担いでいる。かと思えば車道を挟んだ向こうでは、山車に乗せられたこわいほど静謐な、白無垢の女も視える。結局、冠婚葬祭ぜんぶ込みの儀式なのかな。
兎に角どうだっていいの。あたしの王子様、じゃなくって叔父様はほんとうに何処? こんなくだらない機会でもなきゃ逢うことも少ないというのに。この小国ほどの金魚鉢の水圧で微妙にひしゃげたような連中とちがって叔父様は、頭ひとつふたつ背がたかくて、黒服でなくたってスラッとしてて。あたし蒼い髭剃り跡ってキライだけど叔父様ならチクチクしながらキスしたっていい。全身も毛深そうな気がなんとなくするけど、そこらのホテルにでも二人で消えて、うす暗いなか絡みあって宇宙遊泳の真似ごとしたっていい。使い古され苔むした倫理はさておき、私と叔父様は血が繋がっていないんだもの。問題ないでしょ?
でも、逢うって云ったって、叔父様は可愛い姪っ子のあたしをちっとも視てくれない。一言も喋らない。今日なんて黒服ばかりなのだからよけい、あたしの溢れる魅力に気づかない訳などないのに。叔父様は叔母様とは何やら冷戦状態なのか愉快なほど他人みたく距離をおいているけれど、あたしより10歳下の従妹のハルミちゃんのことは溺愛してる。水の底で溺愛って、云えた義理じゃないけど莫迦まるだしよね。叔父様はハルミちゃんを抱っこしたり肩車したり「たかいたかい」って10メートルほどフワリ投げあげたり。ハルミちゃんは実はちっとも喜んでないってあたしは知ってる。タバコの煙でも吐くみたいに、ちいさな泡をアンニュイに口から鼻から吹かして。きっとお菓子か小遣いでも多めに貰って、叔父様に付き合ってあげてるだけ。そっちの方があたしとどうにかなるよりよっぽど不潔な関係だと思わない? だいたいハルミちゃんって色を抜いた金魚の溺死体みたいな顔してんのに、あれを愛玩するってどういう神経かしら。あたしの恋よりも、叔父様の父性愛の方がずっと盲目。不毛。水草ひとつ生えやしない。
あたし何しにここに居るんだっけ。あぁ、冠婚葬祭のどれかよね。あたしはいつもバッグにいれてる香水をほんのちょっと指につけ耳の裏にたす。じっさいに金魚のかたちをしたガラス瓶。不恰好だけど、水は金色で、レトロな白薔薇の香りも好き。御母様があたしに遺したものはこの香水瓶と、あたしの美貌だけ。黒服の群に、叔父様のしなやかな肩と横顔をみつける。
水よ、
今だけは揺れないで。
叔父様の顔だけは、お願いだから輪郭を揺らさないで。ぼやかさないで。
どうしてあたしたちは、こんな金魚鉢の街に暮す淡水人間なんだろう。
いつからだか、憶えてないけど、あたしも叔父様もどうでもいいみんなも、此処にいる。電話ボックスも学校も市役所も薬局もケーキ屋も美容院も居酒屋も置屋も歌声喫茶もスポーツジムもコンサートホールも山も牧場もあるけれど、ここが水を満たしたおおきな円い金魚鉢だってのは、おおき過ぎてフォルムこそ知らなくとも、知ってる。ふわふわ歩くヒトも犬も猫も牛も豚もいるけど、金魚鉢なのに肝心の金魚はいない。ほんとうに水で暮す筈の生きものはテレビでしか視たことない(もしくは忘れた)。植物だけは申し訳程度に水草の類が生い繁ってる。ほかの樹木や花はみんな養殖。「腰痛知らず」って、大人たちは手脚も目鼻口も筋肉をゆるませながら笑う。ただでさえ水で像が朧なのに、軀が芯から腑抜けてく(そんなだからスポーツジムがわりと流行るの)。
兎に角どうせこれから生きて死んでも鉢から出られないんなら、今すぐあたしを叔父様と一緒に、額縁に閉じこめてほしい。ちいさなギャラリーの片隅でいいから。所帯を子供をもつなんてホントは柄じゃない、スポーツジムに通ってなくとも誰より凛と立ってて、孤高を薫らせる叔父様は、あたしと画のなかにデカダンに佇ませる方がぜったいぜったいぜったい似合うの。映えるの。
カボンバの並木はいつの間にかミクロソリウムに変ってて。あたしはなよっとしたマツモやカボンバよりミクロソリウムの方が雄々しくて好き。葉ぶりがすこし叔父様のラインに似ているから。
あれは去年だったかな(ううん死ぬまで忘れない。去年の8月25日)。鉢のなかでいちばんおおきな砂丘へ夏の終り、満ちてたり欠けてたりする親族でピクニックに行った。金魚鉢やガラス道路の修復工事にも使われるらしいガラスの砂はとても綺麗で。あたしは丘のいちばん高いところから、底にひろがる磯くさい、じゃなくって嘘くさい海の波のハリボテセットを視おろしてた。大人はみんな砂より海の話が好き。なんでだろ、って思いながら。
何やらゆるい水のうごきを背後に感じる、と思ったら、トン、と突かれて。水のなかだから、2時間ドラマの殺人事件よろしく落っこち死ぬなんてことはなく、あたしはゆらりと砂を、天麩羅粉をまぶす蝦蛄みたいにころがって(あたしは金魚みたいな体型じゃないわ)。うす紫のシフォンのキャミソールも、髪も頬も脚も、煕る砂だらけ。犯人は、叔父様。丘のうえから、眼をほそめず唇だけで笑ってた。あたしを視ていた。なぁんだ。叔母様にも、むろんハルミちゃんにも似ていない可愛いあたしを、逢うたびごと遣る瀬無いほど女になってくあたしを、叔父様は寡黙でいて、ちゃんと鑑定してらした。そして悦んでらした。その眼は学者みたいに鋭利で、騎士みたいに高貴で、痴漢みたいに卑猥。叔父様は此方におりてきて、あたしの手をとり軀の砂をはらってくれようとしたけれど、此処で身を任せるのはなんだか女として安っぽい気がして、あたしは突っぱねた。
気づいたら、ターミナルに来ていた。ほそい何本ものプラットフォームに黒服が蟻みたいにひしめいて。8月25日なんてぼんやり思い出しているうち、とうぜん叔父様の姿は視うしない。
かわりに、恋敵でもあり、あたしと叔父様をひきあわせたキューピッドとも云える叔母様を視る。父性愛に辟易してるハルミちゃんより、蒸発した実姉である御母様より、ヴェールがかって物憂げに、ホームの突端に立ってる。やっぱり海を歌いたがるシンガーソングライターのラブソングの設定よろしくありもしない海の埠頭にでも居てありもしない潮風に肩までの髪と痩せ過ぎたシルエットを震わせるみたいに。重い瞼に眸は埋れて感情の程度は読みとれない。もしかして電車がきたら、飛びこむつもりなのかしら。でもターミナルで電車のスピードなんて知れてるし、こんな水のなかで飛びこんだって、轢死どころかボヨンとはねるだけで掠り傷ひとつ負わないと思うけど(この夫妻は「事件ごっこ」が好きなのかしら)。
叔母様が此処に居るということは、磁石の同極なみにけして接近しない筈の叔父様は、きっと駅構内の喫茶店にでもはいって、金魚の溺死体、じゃなくってハルミちゃんが視あげるほどのチョコレートパフェでも頼んで、彼女のおちょぼ口に「アーン」「おいちい?」とかオカマ声で云って、無駄に時間をかけ食べさせているのだろう。ぬるくなったチョコでまわりの水を濁しながら。文字どおり溺愛、愛に独り溺れたそんな忌わしい光景を視るぐらいなら、あたしも今すぐ電車に飛びこんだ方がマシ。
駅には黒い服しか居ないと思っていたけれど、独りだけポツンと、やけに丈のある、白のパジャマドレスの後姿が、金魚鉢の街にハリボテの海とおなじくらい不要な噴水の石像みたく立っている。けっこう癖のある髪、シルクとおぼしきパジャマよりうっすら透ける精悍な胴や腕、左斜め前方を向く、ひと昔前の整形みたいにカクカクした三角錐の鼻筋は、叔父様とすこぶるよく似ているが。彼のぐるり数十センチだけ、蟻たちがよけて歩いていたり、なかには泡とともにブツブツ云いながら柏手を打っている老婆もいるから、ひょっとすると、神様? あたしも遠くから、あたしの恋の成就を祈ってみる。今日のこいつらの儀式が冠婚葬祭の何だろうと、どうでもいいと思いません神様? 金魚みたく膨らんだ腹浮かして全員、とくにハルミちゃんなんて他界他界しちゃえばいいと思いません神様? それよりあたしと叔父様を結びつける方が、遥かにドラマチックで趣深いとお感じになりませんこと神様? キンシンソウカンじゃないんだしさぁ。 倫理や道徳なんて、神様が兎や角云えた義理じゃないことぐらい、あたし知ってるんですからね。
あたしは適当に柏手を打ち、窮屈な黒ワンピを脱ぎ、線路になげ捨て。8月25日の砂丘のときとおなじうす紫のシフォンキャミで、泳ぎだす。腕を脚をゆっくりと掻き、浮き。羽衣天女とまでいかないけれど、成る丈美麗に映るよう、髪を揺らし、くびれたり膨らんだりしはじめた軀を官能的にうねらせて、肌寒い水を幻惑のように波だたせ、泡を鈴蘭みたくころがしながら。
駅舎の屋根をこえ、ショッピングビルやマンションの屋上もこえ。
ひさびさに泳ぐし、そんな高いところには行けないけれど。空が広く感じられて、心地好い。じっさい死んだって腹を浮かせのぼってく訳じゃなく、結局のところ遥か上空には、誰もゆけない。金魚鉢から出られない。ただ鉢の口縁の美しい曲線を、ちいさく臨むことはできる。昼の三日月をならべるみたいにそれは熙っている。
黒服をぎっしり詰めた電車が、水をはしってゆく。主にやっぱり男が、ただでさえ歪んでいるのにドアで更に顔を潰しながら、あたしをシンプルに痴漢の眼で凝視してる。無邪気そうに手をふる男の子にだけ、サービスの微笑み。
天には他に塵芥ぐらいしかない筈が、何やら物体がふたつ、浮いてる。養殖の檜の匂い……近づいてみるとそれは、さっき黒蟻たちが担いでいた木棺と、白無垢の女が正座で乗せられた儘の山車。ひょっとするとこのふたり、カップルだったのかしら? 死んでしまった花嫁を乗せて行列する映画をいつかテレビで観たけれど、その逆みたいなものかしら。或いはどっちも死んでいるのかしら(花嫁は、ずっと眼を伏せてる)。或いは実はどっちも生きてる「事件ごっこ」?
何にせよたがいのふきだす泡が、ゆるやかに繋がって、虹みたいな半円のアーチとなり。
ガラスや砂の地を歩くよりよほど軀に堪える筈なのに、どうしてか今日は、いつまでも泳いでいられる。叔父様のことさえ忘れて。どれほど遠くへ来たやら。ふと下を視ると、地表が赤い。金魚みたいに。もしくは秋の紅葉みたいに(紅葉もテレビでしか視たことないけど)。レッドカボンバが、道さえ視えぬほど群生しているのだ。こんな場所、誰からも聞いたことがない? ううん、御母様がむかしむかし、云っていたような気もする。金魚鉢の、外から? まさか。あたしは赤い森のうえに降りて、跳ねて、すすんでゆく。思いのほか茎は丈夫で、赤の綿毛の連なりはやわらかいだけでなく弾力があって……あたしは眼を瞑っていても、くるくると、まるで体操選手がスローモーションで踊るみたいに、どんどん流されてく。
………いつしか、流れがとまり。あたしは赤い絨毯のうえ、生まれてから昨日まで触れていた場所みたいに、身をよこたえ。すこしのあいだ微睡んでいたみたい。生まれた時から練習していたかもしれない、叔父様の隣に眠る場面を想定してのポーズで。
あたしはバッグから、金魚を象った香水瓶を手探りでとりだし、蓋をかるくあけて顔を寄せる。この本物だか養殖だか兎に角白薔薇の香りと、鉢の水の微かなカルキの御蔭で、あたしは何処にいても、何処でもないように感じて、悦びも、こわさもない。それは善いことか悪いことか。
ゆっくり眼をあけると、空がうす暗くて、驚く。黄昏だとか宵だとか、やっぱりテレビのなかだけの話で、金魚鉢での暮しに、そんなものはぜったいぜったいぜったいない筈なのに。
なれない暗さになれてくると、あたしの前方には、ガラスの壁があると気づく。水よりもつめたく、思うより凸凹とした手触り。
どうやら、金魚鉢の果てまで辿りついてしまったらしい。
ガラスはほんのり曇り、しばらく判別できなかったが、その向こうにあるのは所謂「宇宙」と呼ばれるものだと大人たちから今でも教わっているし、あたしも莫迦正直に信じこんでいたけれど、どうも、違い。其処は、誰かの部屋であるらしい。金魚鉢の街に生息する、私や叔父様や叔母様やハルミちゃん、生息するか不明な御母様、黒服の群より、推定一億倍ぐらいの巨人が棲む、部屋。雪が降ったばかりの荒野みたいなベッド、高層ビルみたいなデスクやテレビや洋服箪笥や金庫、夕陽みたいな間接照明……冷静に、脳の眩むほどのおおきさを抜きにして間取りだけでその場所をとらえると、個人の生活臭が感じられない、ごくごくありふれたビジネスホテルのような。
レッドカボンバが、水が鉢が、微かに震動するほどの足音を轟かせ、一億倍の巨人の翳が、あらわれ。照明に、舐められるように風貌が描かれ……あれは、さっきの、白のパジャマドレスの、神様? 右腕にタワーほどのワイン瓶らしきものをもち、シャワーで流したての髪をみだし、口をアイドルのレコードジャケットみたく半開きにし、パジャマの胸もとをはだけさせ、胸毛の渦巻きを視せ……やっぱり、叔父様にとてもよく似ているけれど、やっぱり、ちょっと違う。神様はグラスをもたず、不思議なかたちの文字のラベルが貼られた瓶にじかに口をつけ、呑む。天を衝くほど勢いよくもちあげた瓶からは液が溢れだし、神様の純白のパジャマを容赦なく濡らし、模様を描いてゆく。葡萄ワインではないのだろうか、金魚みたいな赤い色に。
シャワーもワインも浴び終えた神様が、ふと何か気づいたふうに、神様のくせして千鳥足で、金魚鉢に近づいてくる。レッドカボンバに掴まっていないと落ちそうなほど、震動がつよくなる。神様は膝をつく。鉢のそばにあるらしい何かを摘み、パジャマの袖がずりおち露になった、きっとスポーツジム通いじゃない筋肉の美しい褐色の腕をのばし、開口部より降らせる。粉っぽい、雪のように視えるが、上空で霧散してしまって、わからない。
神様の御顔が、眼前に。ガラスがなければ瞬時に吹き飛ばされるだろう鼻息の暴風を聴きながら、曇ったりまたあらわれたりするまなざしを、孤島の航空写真みたいに眺めながら。
上下の瞼よりながくふとく生え出ずる毛の束が、何故か右にだけおきる痙攣が、いつかテレビで視た星のような蒼い眸が、男の色気だとか、神々しさなんかもとおりこして、活火山、或いはメスをいれ剥き出された内臓よろしくグロテスクに揺れつつ、あたしをとらえている。間違いなく、今はただの紫の蟻でしかない筈のあたしを、視ている。叔父様、じゃなくって、神様が。
笑う。眼をほそめずに。女になってく、あたしを視て。
あたしの恋は、叶うでしょうか、神様。
©2024TSURUOMUKAWA
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