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フロ読 vol.36 多和田葉子 編 『カフカ』 集英社文庫ヘリテージシリーズ

不条理の文学として知られる代表作『変身』から『火夫』までをフロ読。
 
『変身』は初読ではない。初めて読んだときは、その描写が不気味で(つまり秀逸で)そちらに気をとられるあまり、不条理というより不快に近い印象だったように思う。
 
しかし、年齢というのは大きい。今となっては、この『変身』がいつ何時、我が身にふりかかってもそう不思議には思わない。それほど身体というものの脆さを感じる日々だ。もし私が蟲になったら、グレゴールのようにそれなりに生きていくだけだろう。
 
運命とか幸福だとかについて考察することが多くなった。この齢まで来ると、人がある日突然蟲に変わったくらいで「不条理」などとは思わない。人生など、ほんの少しの契機で何がどうなるか分かったものではない。突如として変わってしまった立場の範囲で、周りの目を気にしながら日々を送る。消え去ったものを惜しむ間よりも、現状の方が、切羽詰まった身には優先事項となるのが必然というものだろう。
 
蟲になっても家族に「こうしたかった」という思いが残り、然るが故に部屋から出たり入ったり…。結局それが仇となって死んでしまうのだが、それもまた人生。グレゴールの生は確かに不条理で可哀想ではあるが、誰にとっても人生がそうはならないと誰が言えよう。案外、自分だって…と思えたのはかなり新鮮だった。
 
グレゴールは涙もなく死んでゆき、家族は疎む気持ちを持ちつつも全員が泣く。そしてその涙はそのまま、彼らの再生の象徴でもある。グレゴールは家族の誇りでもなければ憎むべき存在でもなかった。ましてや蟲などではない。「ありのすさび」「無くてぞ人は」を併せ持つのが家族というものだ。それが本当に上手に描かれている。
 
精一杯グロいのにどこか爽やか。奇抜なのに外連味はない。やはり名作。

希望も不幸も疎外も愛情も全ては指呼の間にあり。本作は主に蟲の視点から家族を描いているが、逆に「蟲」に思われている家族だったら、どうかな? 実はこの家族の泥臭い立ち回りこそが「幸せ」の正体かも知れないよ…。

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