フロ読 vol.12 城塚登『ヘーゲル』 講談社学術文庫
歴史とは何か。私は出遊しているものがおとずれてくれた時にもたらす縁起にポイントがあると考える。
啓蒙主義は合理的思考によって現存する知識や現実の非合理性を批判することに重きをおいた。ドイツロマン主義は生活に密着した感情・直観・信仰の回復こそ大事と説く。
まるで西尾幹二の説く日本の戦後(『ヨーロッパ像の転換』)のような意見の対立の中で、ヘーゲルは歴史の重みを重んじながらも、歴史がどこへ向かおうとしているのかを見定めようとした。
ヘーゲルは自分の生きている時代を、「精神が現在において立っている段階」と表現した。
そして、この「精神(ガイスト)」とは、〈われわれ〉であり、歴史であり、歴史の中で自己を知る者と定義している。
〈われわれ〉とは「われ」である。
…いやあ、難解。でも昨日読んでいたのは「神仏」についての書。ここで『仏』が私の迷妄に光を与えてくれた。
ヘーゲルの語る「間主観性たる〈われわれ〉」とは、自己意識Aを自己意識で観察―この観察側の自己意識をBとしよう―この自己意識Bが自己意識Aを対象として捉えた時に、初めて実在のものとして現前する。観察に基づく客観性の中にいる「われ」もまた自分。
この観察は座禅などでも常に捕捉しておくものだね。
それを歴史の中で見据えていくと、他の人との関係(共同性だが、これは因果とか縁起として拡げてもよさそう)、歴史的営為の中に存在する「精神」を発見することへと繋がっていく。つまり、自分の実在を歴史的営為の中の〈われわれ〉とみなして自分自身の前にポンと置いてみる。すると…
ああ、〈われわれ〉歴史を共有する人の群れは、そのまま一個の「われ」だ。
うん、これは面白い。
でも、湯舟の揺動の中でぼんやり考えていると、仏様が耳元で囁く。
「どうだろう。人間ってそうやって一つにまとめてよいのかな? 人間はもともと「一」ではないしね。精子と卵子という「二」の間に己は無いのかな?」
「表象できないもの=語り得ないものこそが本物じゃないかな? 意識や精神の本質はそうやってまとめて表してよいものかな?」
あ、荘子も参加してきた。
「つまるところ、本当は現象も本質も紙一重じゃないの? あなたは自分が本当は胡蝶である可能性を考えない?」
この雑念・雑談こそフロ読という孤読の妙味。
次、読むときはこの辺考えてみたい。きっとこの辺りの思考の揺れが、私にとっての「歴史」だと、私の直観が言っている。さあ、本当だかどうだか…。
今夜も佳い月。