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2025/03/01 ビートメイクはスマブラ
一昨日書いた雑記を読み返してみたら、やけに嫌味っぽくて、ピリピリしていてよくなかった。
一昨日は大学院生活最後の研究発表が終わって、ちょっとセンチメンタルな気分になっていた。雑記の嫌味な感じは多分その反動と、それから「これで2年間の自分の研究は本当に終わったのだ、これからは新しいテーマを見つけてバリバリ考えていかなければならないのだ」みたいな焦りがうっすら入り込んでいたせいもあるかもしれない。noteを量産できる時期があって、それを持続させなきゃと思っていたし、人からみて面白いものを書こうという打算があった。よくない。そういうときに面白いものはできない。難しい。
研究発表もあったし、ほかにも予定を詰め込みすぎて先週は目が回るほど忙しかった。今日の午前、久々に曲作りに着手できた。「久々」とはいっても10日ぶりくらいか。サボってた時期と比べるとかなり持続的に作れている方ではある。
曲作りは、雑記を書くときに出てきたような「打算」や「焦り」がよりはっきりとした形で姿を見せる場であると思う。しかもそれはそれ単体で現れるのではなくて、作品の純粋なイメージや構想、アイデアや自分の意志と絡まった状態で、漠然とした、曖昧な塊として、目の前に現れる。それを解きほぐさない限り、制作が前に進むことはない。調子がいいときはおのずとほぐれていくこともあるけど、毎日がそんな感じってわけにはいかない。
だから今日はそういう「塊化」したものを解きほぐすための方法を考えながら制作をしていた。
その1。全体(完成)を目指さない。
最初から完成品を作ろうとしない、という方が適切かもしれない。が、具体的にそれを意識するためには「手元」と「全体」を区別する必要が出てくる。制作過程で作者が介入する「手元」の道具やかたちと、最終的に完成形として現れる「全体」の間には、ほとんど存在論的といっていい亀裂・ミッシングリンクがある。これはもう、どうしようもない。あえて「部分」ではなく「手元」という言い方をしているのは、それが単に全体にとって断片的であるというだけでなく、「近さ-遠さ」のギャップを孕んでいるということを表したかったからだ(と、後から気がついた)。手元と全体——ゲシュタルト。ゲシュタルトは部分的な要素がある程度変形してもいきなり変わってしまうことはない。変化が一定の強さ=閾を超えたときに初めてそれは変化として現れる。量的な変化が質的な変化へと転化する。相転移?
ああ、なんか音楽制作の難しさがこれで腑に落ちた気がする。音楽を作るときはゲシュタルトをめがけて制作を始めるのに、僕たちがアクセスできるのは「手元」の領域、あるいは「閾下の領域」でしかないからだ。作者はサブリミナルな操作しかできない。閾上のゲシュタルトの生成・変形をめがけつつ、閾下での即物的な操作に従事すること。その二重性がこの難しさを生み出している。
これはある意味、スマブラ的な難しさだ(スマブラなんて難しくないという人がいるかもしれないけど、スマブラは難しい。誰が何といおうと)。眼差しの対象(スクリーン)と、動作・介入の対象(コントローラー、身体)が異なっている。単に「ゲーム的」ではなく「スマブラ的」なのは、スマブラの即時性が高くてパニック的な環境の下では、画面上のキャラクターのコントロールの難しさ以前に、画面を見て思考・判断し、適切な反応を自らの身体に指示すること自体が難しいからだ。スマブラではキャラクター/コントローラの間に「/」が入るだけでなく、コントローラ/身体、身体/思考、思考/知覚の間にも「/」による中断が生まれる。それぞれの間隙において、ゲシュタルトと手元性の摩擦が生まれている。ビートメイクはスマブラだ。
いまこの文章を書くうえでもスマブラ的な間接性は生まれている。ラフな日記を書こうとしたら論考が生成する。むしろラフに書こうとした「方が」、ゲシュタルトとしての「面白い文章」が生成しやすくなる。不思議だ。暗海に石を投げるように、僕らは動く。
話を戻そう。制作時の「絡まり」を解きほぐす方法。
その2。外部化する。
「絡まり」をそのまま何らかのかたちでアウトプットすることで、そのかたちの操作によって、それを解きほぐせるようにすること。僕の場合、クロッキー帳に思い描いているイメージを雑なスケッチにして描いてみたり、入れたい音の質感やその空間的な配置を図示してみたりする。そうすることで漠然としていた「イメージ」が物質化されて、想定される他者の視線や打算から剥がれ落ちる感覚がある。
これはある意味、イメージを「手元」に引き戻す作業かもしれない。漠然としたゲシュタルトとしてそびえたつ不安や失望の塊を、物質やかたちとして、「手元」に引き戻す。意味性から引き剥がす。遠くに影だけがある状態から、手元に触れられる「もの」がある状態へ遷移させること。
これって多分、タスク管理とかにも通じる話だ。漠然とした「完了」ではなく、物質的な、「手元」的なマイクロタスクへと分解すること。ゲシュタルトを脱魔術化すること。僕にとってこれは切実な問題だ。
その3。ディテール化する。
「塊化」しているときにありがちなこととして、リファレンス(曲のイメージやサウンド面で参考対象にしている既存楽曲のこと)に縛られすぎている、という状態がある。自分の場合これはリファレンスを「聴きすぎている」ことよりもむしろ「ちゃんと聴いていない」ことによって生まれている場合が多い。つまりディテールではなく全体のぼんやりとしたイメージ=曲のゲシュタルトだけを意識しているという状態。ここでも「手元性」をスキップしていきなり「全体」へとアプローチしようとするというミスが生じている。
ゲシュタルトを転倒させ、物質性・手元性へと引き戻す方法として、とにかくディテールに着目するという方法が存在する。
ゾラの小説をゆっくりと、隅から隅まで読んでご覧なさい。本はあなたの手から落っこちてしまうだろう。現代のテクストを素早く、拾い読みしてご覧なさい。そういうテクストは不透明になり、あなたの楽しみにとって閉じられたものになるだろう。あなたはなにかが起こることを期待する。そして何も起こりはしない。というのは、言語に起こることはストーリーには起こらないからである。〈起こる〉こと、〈過ぎ去る〉こと、ふたつのボーダーの断層、歓びの隙間は、言語のヴォリュームにおいて、言表において、生ずるのであって、文面のつながりから生ずるのではない。むさぼらないこと、吞み込まないこと。そう、草を食むこと、綿密に刈り込むこと。
ここでバルトが唱えているのは言語の「ヴォリューム」、つまり一つ一つの単語、あるいは文字やその音の手触りや響き、質量、存在感そのものを感じとることだ。そこに快楽を感じることができたとき、もはやストーリーは必要ない。だってここで何かが「起こっている」のだとしたら、それはストーリーの中じゃなく、言語そのものが持つ物質的・音響的な空間の中で起こっているのだから(「本はあなたの手から落っこちてしまうだろう」って、なんて素敵な表現だろう)!
こういう議論における「物質性」を僕は「音響性」と捉えることにしている。音楽というのはそもそも、音やリズムの「ヴォリューム」を楽しむためのものだから。でも音楽も記憶やイメージのなかだけで扱っていると、そういうヴォリュームをもっていたはずのものがいつの間にか曖昧なゲシュタルトになってしまうことがある。だから再び「草を食む」ように、聴くことで何かが「起こる」ような仕方で、ディテールを、ヴォリュームを、テクスチャーを聴き取るようすること。これもイメージを手元性へと引き戻す方法論の一つだ。
それでもリファレンストラックに縛られてしまうときは、同じ作者の別な作品や、年代やジャンルの近い別な作者の作品を聴くと、当初のイメージを相対化しつつ、別な可能性を意識できるので良い。これは自分用の覚書です。
スマブラをしつつ、スマブラをやめること。画面を見ずに、コントローラのボタンを押す感覚に身を任せること。みんなが飽きてほかの遊びを始めた後も、一人残ってボタンをぽちぽち押し続けること(によって結果スマブラが強くなる、ということこそいま考えている状況を比喩的に表したものだけど結局ここでも最終的には「強くなること」を目的として眼差してしまっていてそれがいいことなのかどうかはいまだ判断がつきかねている、けどいい曲は作れるようになりたいしでもそれが「いい曲」になるのは結局楽しみにながら作ることができた時だし、この文章にしたってそうだけど楽しみの中で書かれた文章の方が面白くなるのに面白くなったことによって結局それを人に読ませて評価を受けることが目指されてしまうということが今ここで現に起きているということをどう受け止めていいのかまだ答えを持っていない、とりあえず夕飯は回鍋肉を作って食べたが味が薄くて微妙だった、ビビッて味噌をスプーン一杯しか入れなかったけど二杯入れればよかった)——。