夫とうつ⑥
夫が抱えていたうつの症状は様々あった。
不眠、食欲不振、不安感、何も楽しく感じない、やる気が起こらない、疲れやすい、集中力が続かない、忘れっぽい、感情のコントロールができない、頭痛、肩こり、などなど。
特につらそうだったのは不安感だった。それはいったいどんな感じなのか、症状が落ち着いているとき夫に聞いてみたことがある。
「心配事があるときの、不安でどきどきしてあせったりする、あの落ち着かない氣持ちがずーっと続いてるような感じ」とのこと。うーん、それはかなりつらそう。いやだね。
その不安感が強くなると苦しくてたまらなくなるようで、そんなときは頓服薬を飲んで、ふとんの中でじっと横になってしのぐしかないようだった。
そんな症状が続いていたあるとき、友だちのKちゃんがこちらに遊びに来てくれたので鎌倉を案内した。
ちょうど紫陽花の季節だったので「明月院」へ。明月院ブルーと称される淡い青の紫陽花で埋め尽くされた境内を歩き、写真を撮り合ったりした。
そのあとカフェでお茶をしたとき。Kちゃんから夫の体調を尋ねられたので、このところまた調子が良くないこと、そして最近の様子などをつらつらと話した。
この前お風呂掃除をしてたのね。水垢がついてたのを綺麗にしようと思って、じっくりやってて。
そしたら寝てたはずの彼がやってきて「手伝うよ』って言うから「いいよ、ゆっくり寝てなよ」って言ったんだけど「なにか手伝わせて」って言うの。「じゃ、これ。洗ってくれる?」って風呂桶を渡して。一緒にもくもくとやったのね。
で、その夜になって彼が「今日は一緒にお風呂掃除ができてしあわせだった、ありがとう」って言うの、ぽそっと。え、なんでわざわざそんなこと言うのかなって思ったから『そう、なんで?』って聞いたらね「一日の中でひとつでも良かったと思ったことを、ちゃんと探すようにしようって思って」って言うのーーー
そこまで話して言葉が止まった。
Kちゃんが涙をぽろぽろこぼしていたから。
「〇〇さん(夫) 生きようとしてるんだね。聞いてるうちに彼の気持ちが入ってきて。生きようって必死になって頑張ってる氣持ちが伝わってきて」
Kちゃんはそう言って、テーブルの紙ナプキンを取り目を押さえて泣いた。観光客で賑わう店内で。人目も気にせず子どもみたいに。
夫は、複雑な家庭環境で育ったから身内ともほぼ絶縁状態で、親しくしている友人もいなくて。私と娘が唯一の親しい人間という状態だった。
でもKちゃんのその綺麗な涙を見たとき。夫のことを心の底から心配して案じて、回復を祈ってくれていることが伝わってきた。Kちゃんは夫の直接の友達じゃないかもしれないけど、こんなにもこんなにも想ってくれてる。
友達だとか、身内だとか、そんなものは関係なくて。ただ人が人を想う純粋な氣持ち、祈り。それが何かの力にならないわけがない、なにかの形で届かないわけがない。そう感じさせられた。
涙は、浄化なんだな。
彼女の綺麗な涙を見ていたら、私の心の中までなにかが綺麗に洗い流されていったようだった。
もしもこの先、夫が死を選んでしまうことがあったとしても。私は彼が逃げたとは思わないだろう。彼が生きようと、治りたいと必死に頑張っていたことを、私は誰よりも知っているから。
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