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巫女物語3-2 「月詠の調べ、結びの糸」第2章

第2章 水面の調べ

月詠神宮(つくよみじんぐう)に通う日々が続く中、蒼真(そうま)の心身は目に見えて回復していった。

境内の清々しい空気、木漏れ日の暖かさ、そして何よりも水縹(みはな)との穏やかな時間が、彼の心を優しく包み込み、癒していった。

以前は常にどこか物憂げだった表情も、最近では穏やかな微笑みを浮かべることが多くなり、顔色も随分と良くなっていた。


ある日、水縹は蒼真を神宮の奥にある、普段は関係者以外立ち入り禁止の秘苑へと案内した。

そこは、手入れの行き届いた庭園と、静かに水をたたえる「鏡の池」、そしてそのほとりに佇む古びた東屋がある、静かで特別な場所だった。

「ここは、私が幼い頃から大切にしている場所なんです。静かに過ごしたい時や、心を落ち着かせたい時に、よくここに来るんです。」

水縹はそう言いながら、蒼真を東屋へと誘った。


苔むした石段をゆっくりと上り、東屋に腰を下ろすと、目の前には静かで穏やかな水面が広がっていた。

周囲の木々や空が水面に映り込み、まるで鏡のように景色を反転させている。風が吹くたびに水面が揺れ、映り込んだ景色が微妙に変化する様子は、飽きることなくいつまでも見ていられるほど美しかった。

「わあ…!本当に、静かで…息を呑むほど美しい場所ですね…。まるで、絵画の中にいるようです。」

蒼真は心からの感嘆の声を漏らした。その瞳は、水面に映る景色を吸い込むように見つめている。

水縹は、蒼真の言葉に嬉しそうに微笑み、

「そうでしょう?私もここがとても好きなんです。特に夕暮れ時は格別なんですよ。水面が夕焼けの色に染まって、本当に幻想的な景色になるんです。」

と答えた。


二人はしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただ静かに水面を眺めていた。

時折、水面を渡る風が、木々の葉を揺らし、心地よい葉擦れの音を運んでくる。水面に落ちた木の葉が小さな波紋を描き、それが静かに広がっていく様子は、まるで音楽の調べのようだった。

「…この水面を見ていると、心が洗われるような気がします。都会の喧騒や日々の悩み事が全て洗い流されていくような…不思議な感覚です。」

蒼真が静かに呟くと、水縹は優しく微笑み、

「そうですね。この池は、『禊の池(みそぎのいけ)』と呼ばれているんです。古くから心身を清める力があると伝えられているんです。この水に触れることで、穢れを祓い、新たな気持ちで前へ進むことができると信じられているんです。」

と答えた。

「禊…ですか…。」

蒼真は、水面を見つめながら、小さく呟いた。彼の表情は、どこか遠くを見つめているようだった。水縹は、彼の様子を心配そうに見つめ、

「…何か、気になることでもありますか?」

と、優しく尋ねた。

蒼真は少し躊躇した後、ゆっくりと口を開いた。

「…実は…以前は、絵描きとして生計を立てていたんです。個展を開いたり、依頼を受けて絵を描いたり…でも、体調を崩してから、思うように筆を持つことができなくなってしまって…。」

彼は、悲しそうな表情で、自分の手を見つめた。その手はかつて無数の線を描き、色彩を操っていた手だった。

水縹は、蒼真の手にそっと自分の手を重ねた。その温かさが、蒼真の冷え切った心を少しずつ温めていく。

「…そうだったんですね…。それは、お辛かったでしょう…。でも、今はこうして、また絵を描きたいと思えるようになったのではないですか?この神宮の風景を見て、何かを感じるようになったのではないですか?」

水縹の言葉に、蒼真は少し驚いたように顔を上げた。水縹の温かい眼差しが、彼の心を優しく包み込んでいる。

「…確かに…そうですね。最近、また絵を描きたいと思うようになってきました。この神宮の風景を描きたい、水縹さんを描きたい…そう思うようになったんです。」

彼は、少し照れくさそうに、しかしどこか決意を秘めた表情で、そう言った。水縹は、彼の言葉に、胸がドキドキするのを感じた。嬉しさと、ほんの少しの戸惑いが、彼女の心を揺さぶる。

「…それは、本当に素晴らしいことですね!ぜひ、描いてみてください。私も、喜んでモデルになります。いつでもお声がけくださいね。」

水縹は、心からの笑顔でそう答えた。蒼真の表情も、ぱっと明るくなった。


その日から、蒼真は再びスケッチブックと向き合うようになった。

水縹は、彼のモデルになったり、一緒に境内を散策したり、神宮に伝わる様々な物語を話したりしながら、彼の創作活動を積極的に応援した。

蒼真の描く絵は、以前にも増して力強く、そして温かみを帯びていた。


ある日、蒼真は水縹に、自分が描いた一枚の絵を見せた。それは、水縹が境内の清掃をしている姿を描いたものだった。

箒を持つ姿、木漏れ日を浴びる表情、風になびく髪の一筋一筋まで、繊細なタッチで、そして愛情を込めて描かれていた。

「…これは…!」

水縹は、絵を見て、言葉を失った。絵の中の自分は、普段鏡で見ている自分とは全く違って見えた。それは、蒼真の優しい眼差しを通して描かれた、美しく、そしてどこか神聖な雰囲気を纏った女性だった。

「…どうですか…?気に入ってくれましたか…?少しでも、水縹さんの美しさを表現できていれば嬉しいのですが…。」

蒼真は、少し不安そうに、しかし期待を込めた眼差しで、水縹の顔を見つめた。


水縹は、瞳に涙を浮かべながら、

「…とても…素敵です…言葉では言い表せないほど…こんなに美しく描いてくれて…本当に、ありがとうございます…大切にします…。」

と、震える声で答えた。

彼女は、絵をそっと胸に抱きしめた。その時、蒼真はそっと水縹の肩に手を添え、優しく彼女を見つめた。水縹も、蒼真の温かい眼差しに応えるように、顔を上げた。

二人の間には、言葉では言い表せない、特別な感情が満ち溢れていた。


その日の夕暮れ、二人は再び秘苑の東屋にいた。夕焼けが水面を赤く染め、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。

蒼真は、水縹の隣に座り、そっと彼女の手を取った。水縹は、少し驚きながらも、その手を優しく握り返した。

「…水縹さん…私は…この神宮で、水縹さんと出会えたこと、本当に感謝しています。水縹さんと出会わなければ、私はきっと、今も暗い場所にいたと思います。水縹さんの優しさ、温かさ、そしてこの神宮の静けさが、私を救ってくれたのです。」

蒼真は、夕焼けに染まる水面を見つめながら、ゆっくりと、しかし力強く語った。

水縹は、彼の言葉に深く感動し、瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「…私も…同じ気持ちです。蒼真さんと出会えて、私の世界も変わりました。蒼真さんと一緒にいると、心が温かくなり、満たされる気持ちになるのです。」

水縹は、蒼真の手を握りしめ、そう答えた。夕焼けに染まる空の下、二人の手は固く結ばれていた。

静かな水面は、二人の心を映し出す鏡のようだった。夕暮れの調べが、二人の間を優しく包み込んでいた。

(続く)


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前田拓
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