十三 奇還
はぁはぁと息づく呼吸のまま、周りを見回したが、どこか応接室のような部屋のソファにて目覚めた自分を見る限り、僕は自宅、自室にいるわけではない。
(ここは……どこだ?)
頭に浮かんだその疑問、『どこ』には多くの意味がある。息切れと警戒心が収まらないまま、僕はまず状況の理解に努めた。ソファの後方には机と所狭しと本が並んでいる本棚があり、そして……大きな縦長の窓があった。
(窓……)
僕はそそくさと窓辺に移動し、隠れ見るようにして外を覗いた。
(霧は……出ていない)
窓の外は平穏で……正常な色をした山々が連なり、手前には時折、田園や家屋が見える。
(ここは……現実……)
ほんの少しだけ落ち着いた僕は、それが定位置のように自身の目覚めたソファに戻ったが、安堵の溜め息をつく暇もなく、怒涛のように疑問が湧く。何よりも
(ここが現実だとして……どこなんだ?)
それが、現時点で最重要と思える疑問だった。見たことがある部屋なのは間違いないのだが、混乱した頭ではそれがどこなのかまでははっきりとしない。再度、部屋を見回して見ると、ドアノブの付いたドアがあることに気が付いた。
(扉がある……。外に……出てみるか……)
そう頭には浮かんだものの、先刻の夢による強烈なインパクトのせいか、扉というものが恐ろしく思え、それを開ける勇気が出ない。目が覚めてから、目前の扉に怖じけている……、この間はほんの数分だったろう。だが、僕にとって恐怖の象徴とも言える部屋の扉は、全く無造作に、躊躇なく外側から開かれた。僕は驚く暇さえなかったが、表情には出ていたようだ。扉をくぐって入って来たその人、下山田教授は僕の顔を見て、急ぎ、手にした盆を机に置き、
「どうしましたか?」
と穏やかだが、深刻な声色で僕に尋ねたのだが、僕に流れる時間は数秒の間、止まったままだった。ショートした頭がやっと動き始め、
「教授……。無事だったんですね……」
と、思わず絞り出した言葉に、今度は下山田が言葉を失った。
「すいません……。質問の意味が……ちょっと……」
と申し訳なさそうに言った。何よりも状況の把握が出来ていないことに気がついた僕は、とかく周りを見回し、この場所が下山田の研究室であることに気がついた。目の前の机にはお茶の乗った盆、永瀬と書かれた名刺、そして……赤い空の下、奇妙な凱旋門のような建造物が描かれた画用紙があった。フラッシュバックするような記憶の閃光。
この画用紙に描かれているものは、ある人間が迷い込んだ……疑似世界だ。いや、それよりも今重要なことは状況の把握だ。今の僕はどういう現状だ?心配そうに僕の顔を覗き込む下山田に何と言えば良いのか……と僕は焦った結果、
「すいません。少し……うたた寝してたみたいで……。頭が……、いや寝ぼけてるのかな……」
と、はぐらかすことしか出来なかった。ははは、と笑って、勧められたお茶を見て、自分の喉の渇きに気が付き、思い出したようにそれに飛びついた。
「はは。一時的な記憶の混乱ですね。起きたばかりの脳にはよくあることです……が」
と、そこで一度、言葉を切り、
「ですが、先ほどのあなたの様子を見ると……、また奇妙な夢をごらんになっていたのではありませんか?」
と、図星をつかれ、僕は苦笑するしかなかった。現実において、夢は夢として徐々に希薄化していくものだ。これは……精神が現実に適応しようと働くからなのか……。やたらと現実味の強かった先刻の奇妙な夢も、だんだんとそのリアリティを失いつつある。
「後ほどそのお話も伺いたいのですが……、とりあえず永瀬くんが来るまでは……」
と、彼の傍らに置かれていたファイルを手にし、
「ちょっとこれを見て頂けませんか?」
と、僕に渡した。
(あれ?何か以前にもこんなことがあったような……)
猛烈な既視感と、何か喪失感に似た違和感に捕らわれながらも、僕はそのクリアファイルを開いてみた。それは誰かの描いた数々の絵だった。その異なる完成度から、複数の人間が描いた物だと思われる。しかしそれら全てが……疑似世界が描かれた物であり、それに触発され、希薄化し忘れ始めていた僕の夢が、再度、リアリティを帯び始めた。
「これは、先ほど話した外来患者を含む私どもの患者が描いた物です」
遠くに下山田の声が聞こえる。
「これは……、疑似世界が描かれた物です。抽象的現実ではない……」
ボソッと呟いた僕の言葉は、
『コン、コン。ガチャ』
「すみません。遅れました」
と、いう永瀬が部屋に入ってくる音にかき消された。
(永瀬教授?)
強烈な正体不明の違和感があった。何かが間違っているような……。その間も、僕の手は意志とは別で動いているように、ファイルをめくっていた。腕が六本、顔が四つ、阿修羅像のような絵があった。
「この絵は……多数にて一つのものの影響で、疑似世界で融合された精神が、現実の体に影響を及ぼしたもの……」
僕は自分でも驚くほどに淡々と言葉を続けていた。
「ちょ、ちょっと……」
と、焦った風な永瀬の声に続き、穏やかだが深刻な声で
「少しお聞かせ願えますか?一つずつ……お願いします。多数にて……一つのもの……とは何ですか?」
と、急によそよそしくなったような下山田の質問が聞こえた。
「過去にこの星に現れた高次元生命体……です」
「高次元生命体?」
当然のように、その言葉には疑問符がついている。
「わからないんですか!?自分よりも高次元に存在するものに対して、僕らは成す術がないんですよ!」
早口でまくし立てた自身の言葉を聞いて、自分が焦っていたことに気が付いた。驚いたように僕を見る二人の教授を見て、僕は
「すみません。何か……ちょっと僕は……おかしくなっているようで……」
と、非礼を詫びた。
「いやいや無理もありません。長期に渡っての不眠でちょっとお疲れになっているようですね。やはり病院でよく眠れる薬などお出しした方が良いのかもしれません」
と、さすがは精神に関する医者、僕を傷つけないように、実に穏やかに受診を促してくるが……、なぜか僕は、まるで彼と心が接続されているように、その真意までが理解できてしまった。「あなたはの精神は健常ではなくなりかけているから、精神科で受診が必要だ」と。
だが、それと同時に彼が僕を案ずる気持ちもよく伝わっていた。だからこそ、僕はその場にとどまり、彼らとまだ話をする気になったのだろう。下山田が話に乗るように、
「低次元のものは高次元のものに手が出せない……ですか……」
と呟いた。その時の彼の心境はこうだ。「精神が病んでいる患者に対しては、まずその話を聞いてやり、そしてその話に乗りながら、徐々にその考え方を正常に導くことが重要」だ。
だが、「どこかで読んだことがあります」と前置きして、彼が話した内容は興味深いものだった。
例えば二次元、つまりそこに絵があるとしよう。絵というものは平面において存在するものであり、そこには高さがない。つまり二次元の世界というものがあるのならば、それは高さや厚みがなく、面積によって表される世界だと言える。もしもそこに三次元、つまり立体的なものが舞い込んだとしたらどうだろう。四角形であるならば、その面積は縦×横で表すことが可能であり、二次元に存在できるが、三次元的立体はその面積に何かしらの高さを掛けることによってその体積を表すものだ。
計算式でいうのならば、どれほど広い面積を持っていたとしても、最後に零を掛けるのであるからして、そこにそれは存在しないということになる。このことから、もしも二次元の世界があるとしても、そこに三次元のものは存在できない理由であるが、三次元のものは物理的に二次元に干渉、つまりペンなどを持って書き加えたり、消したりすることが出来る。これが、先刻、僕の口から出た、『低次元に存在するものは、それよりも高次元の存在に対して無力である』という理論ではないか?と下山田は言った。
非常に興味深い理論だ。こんな論証が過去に行われていたことにも驚きだが、これでは手の打ちようがないとわかっただけで、解決にはならない。ファイルの次のページには何か懐かしい、見覚えのあるような記号があった。それはたった一つ、ページに大きく描かれており、何かのシンボルのようにも思えた。それを見た瞬間、ガラスにひびが入るような甲高い音がして、僕の目が眩んだ。眩暈と共にが二重に見え始めた。重なるように見えたものは、一つはこの研究室の風景、もう一つは天井を透かして見える真っ赤な空とそれに突き刺さるような巨大な円塔だった。
(まずい……。これは……疑似世界だ……)
一瞬で消えたそれだったが、咄嗟に気が付いたことがある。少し迷ったが、
「これは……他世界から来た記号です」
何も返答は返ってこない。その意味の理解が困難である様子だ。それよりも何かが変だ。先刻より感じるこの違和感がより鮮明に僕にのしかかる。
(僕は以前……、この部屋で今と同じようなことを……)
僕は……薄れゆく記憶の中を必死に探ってみた。
(あのとき、僕は資料を……)
永瀬と下山田が何かを言っているが、記憶に集中している僕の耳には届かない。僕がこの資料を見たきっかけは……。
(どうも、遅れましてすいません。岩村ですー)
「岩村博士!!」
(そうだ。ここには岩村博士がいない!!)
つい大声を出してしまった僕に、下山田と永瀬が尋ね返す。
「岩村博士……?」
「そうです。岩村博士は……まだ到着されていないんですか?」
と尋ねてみたが、彼らは目を白黒させて
「岩村博士……とは、どなたのことですか?」
と再度、尋ね返された。
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