小説「芙美湖葬送」・順不同版
あれから60余年が過ぎた
街も人も風景も変わった。私も八十六歳になった。幾つかの大病を抱えている。あと十年は生きたいと思うけど、そうはいかないだろう。人も街も風景も変わった。若者は長身になった。女性の活躍は目覚ましい。でも喋っているのは日本語じゃない。何処の言葉だと聞かれても困る。
意味は通じる。でもこころが伝わらない。
全く別な国になった。異郷である。その異郷で死ぬ。だから死後にこだわらない。妻と母の為に立派な桜御影の墓を作った。身内の借金はいっぱい残っているのに、何で墓なんか造るんだ、直接はいわないが娘たちは思っている。でも造りたかった。
決して仲良くはなかった母と妻と同じ女性が仲良く並んでいる。そこに私が割り込もうとは思っていない。
所詮意味ないことだ。ひといはみな違う。生きているうちはなんとか袖すり合わせているが、死んでまでそんな努力をする必要はない。考え方にもよるが土に還るのである。記憶も形も変わる。この土地だって水位が上がって海に飲み込まれるかもしれない。すべては一過性である。形は変わる。
グーグル・ストリートビューで青山界隈をあるく。地下鉄外苑前も青山も駅はのこっている。妻の芙美湖が通っていた伊藤病院は新しく建て替わっている。
妻の芙美湖を思う。芙美湖とはあだ名である。読みは同じの普通の名前があった。その名前で生きてきた。友人とは葉書などではあだ名で表記した。
友人の名前は西湖である。
読み方は同じの本名を持っている。
その経緯については別に書いている。
芙美湖と結婚する前に三人の女性と付き合った。春子、田丸、琴絵である。春子は中学の同級生だった。手を握ることしかなかった。別れるときに一度だけ接吻した。琴絵は芙美湖と一緒になるきっかけになった女性である。
みな八十歳を超えただろう。或は死んだかもしれない。
そんな人生の最後の場面になったのである。
もっとも思い出深いのはある盛り場である。その中心に大きなホールがあった。夜はグランドキャバレーで昼間はダンスホールだった。ジルバが流行ったころだ。多くの若者が異性を求めて集まって来た。やくざ者も。ちんぴらも。やくざ者はチンピラが一般のお客さんにイチャモンをつけさせないための用心棒である。
そのカシラが教授である。プロフェッサーともいった。黒縁眼鏡の中年の男である。いつも哲学書を小脇に抱えている。予科練くずれである。いつも死に損なった、もう半年あれば特攻で死ねた。死ねなかったのが最大の禍根であるといっている。
だれも頷く。だれも黙礼する。だれも彼の前ではおとなしい。気配が違うのである。殺気はないが冷気のようなものががある。それをみな恐れている。
当たりを圧するそのビルにはまだ東京空襲の銃痕がが残っていた。そこには多くの学生がアルバイトで集まっていた。芸大油絵の原田、作家志望の辻本、早稲田の高校教師志望の原田、牧師になりたい国際基督教大学学生である。
そこに美男子の男爵もいた。カウンターのバーテンダーである。といってジュースしか作らない。作れない。造る必要もない。売れないから。ワイシャツに黒のチョウタイがあればいい。不思議に女にもてる。気軽に無駄話ができる。身の上相談もこなす。便利なのである。なんとなくライバル同士になる。その都度女が変わる。それでいてもめない。別れ際がうまいのだ。子供も何人かいる。それぞれの女の実家で育っている。女の親とももめない。彼なりの人徳なのだろう。
満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。