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【随筆】【文学】オホーツク挽歌考(五・最終回・折り返し)

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思いっきり乱暴に要約するならば、病床の母のために牛乳を買いに行く途中のジョバンニが丘の上で寝込み、臨死体験にも比するような、深い精神的体験をする、目覚めて丘を下り、母のため、牛乳瓶を手に帰りを急ぐ――「往相」と「還相」の物語といえないだろうか。
 「往相」と「還相」とは、こちらも私流の乱暴な理解でいうならば、悟りや往生、宗教的な高みへの上り坂の往路と、そこららの迷い多き俗世、日常的地平、実践への下り坂の復路とでもいうことになろうか。吉本隆明(1924年~2012年)の親鸞論の鍵概念だが、浄土、法華を問わず、在家宗教としても大乗仏教の基本的構造のようなものなのかもしれない。「真の自己」の象徴としての牛を探し、見つけ、飼いならし、乗りこなし、悟りに至り、そして一介の酔漢に戻る、禅の「十牛図」しかり。
 「銀河鉄道の夜」が一夜の「往相」の物語であり、ジョバンニのその後の人生行路、長い長い「還相」を予感させるオープン・エンディングとなっているように、オホーツク挽歌行を仮に「ヌミノーゼ」なき「往相」とすると、その後の賢治の生涯にわたる「還相」=他者への献身、社会的実践への<折り返し>となった――この旅の翌年から書き始められ、死の直前まで書き継がれた「銀河鉄道の夜」、賢治の長い「還相」そのもののような、畢生のファンタジー――「『銀河鉄道』とは解放された挽歌行である」(見田宗介)――いささか戦線を広げ過ぎたようなので、ここらを一応の結論として、とっ散らかった雑考を閉じたい。

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