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私の空気読めない&対人恐怖史(小学生編)

2年生


「天然だね!」と初めて言われた。割と明るい言い方をされたし、意味も知らなかったので良いことだと思っていた。

3年生


1.


隣の席の男子とおしゃべりが楽しくなりすぎて気づいたら周りが静かになっていて自分たちだけが喋っていることに気づくのにだいぶ時間を要した。

2.

私には大好きな親友ちゃんがいた。その子が他の強気な子と言い争っているときに私が「親友ちゃんかわいそう!」というごく純粋だが鬱陶しい態度を露わに強気ちゃんに反駁したら「今はあなたの話はしてないの!」というようなことを言われた。こう書くとその子も悪い感じがするが、たぶん空気が読めてなかったのだと思う。

4年生


イツメンの輪に新しいよっ友が増えて、人間関係の定義が曖昧に感じられた私は「友達になってくれるの…?」と不安げに聞いた記憶がある。なぜならそれまでの経験的に「友達になろう」と申請することで友人関係は成立すると認識していたからである(爆)その子はもちろん爆笑しながら「もう友達でしょ?」と言ってくれて恥をかかせずに優しくしてくれたその子には感謝している。

5年生


このあたりからだと思う。クラスの女の子たちが校庭があるのに外で遊ばなくなって、同級生女子に対する理解の解像度の低さが浮き彫りになってきた。今まではクラス運が良く、変なことをしていても「天然だね!」と言われるだけで済んできたからだ。私は精神年齢がおそらく周りの子より遅れていて「教室のおしゃべり」が楽しめなかったため、なぜ皆が急にインドア派に転じたのか全く意味が分からず、女子がほぼ少人数のドッチボールに「誰だこいつ⋯」と最初は思われつつ「逃げの陰キャ」として嬉々と走り回っていた。グループ化が如実になってきて、しかし前仲良かった子たちとも同じクラスになれず、割と孤立していた。よっ友だった人たちの遊びの輪に入れてもらったが正直あまり合わず(いい人たちだったけど)、楽しくはなかった。(母親が上京を提案したのもこの頃だと思う)私は今のクラスが嫌だという理由は胸に秘め、勉強したいという名目で地方都市を離れた。

東京の5年生


はっきり言って東京の5年生の方が地方都市より大人びているため、転校が一概に良いことだったかはわからない。でも以前通っていたこともあって見知った顔も多く、何よりアカデミアな都民の中では成績という武器があればいじめられることは、よっぽど変なことをしない限りはまずなかった。相変わらず浮いてはいたが、私は上京してからの方が楽しかった。転校前に旧クラスメイトに夏期講習で目撃され、「受験のために転校した風雲児」という目立ちたくない人間にとっては不本意な形で東京の学校生活はスタートしたがそんなに悪くはなかった。一応友達もできたし、同級生に対して空気を読めないという恐怖はあったが、なんとか平穏に過ごせていたと思う。テストはとにかく出来が良かったのでそこで威厳を保てたが、テスト前に本気なのか馬鹿にしてるのか分からない友人たちに「テスト前に手を触られるとご利益がある」という理由で握手を求められるのは嫌だった。授業は相変わらず退屈だったが、前の学校にいたときよりは社会性を身に着け、退屈な素振りは隠すようにした。(私はテスト終了後や暇ができるやいなやすぐ読書を始めることを退屈な素振りとして認識したことはない)答えが分かっても手を挙げないように気をつけたし、”東京”の雰囲気をきちんと警戒できた。しかし東京の女子たちの会話は高度すぎて真意を読めたことはほとんどなく、聞いてる時の大半は内心で首を傾げていた。私の会話スタイルが脳みそから出た言葉を直で伝えるスタイルとしたら、彼女らの会話は芸人のような会話で、ハイコンテクストすぎたため暗喩を読み取れない私は理解できなかった。

6年生


クラスは同じだったが親友グループでいざこざがあったせいか、経緯は忘れたが後期になると昼休みに私は孤立した。時間を潰すためにビオトープをぶらついたりしたけども、それが最初の惨めな孤立体験だと思う。たまに女子が鬼ごっこをするときは誘ってもらえたが「かわいそうな子を誘ってあげる」体で、その子達は気が強く、大人びていたので私はなんとなく怖かった。(もちろんその優しさはありがたく感じていたが)。幸い塾がクライマックスの時期だったため私は毎日学校にいる間=読書ができる自由時間と認識して暇つぶしのために登校した。(塾にいる間も友達は作らなかった。なぜなら作り方も分からなかったし、必要性を感じなかったからだ。それに一言も喋らないのでできる訳がない。何より笑いの沸点が異常に低かった私は話を聞いているだけで十分楽しかった)
受験が終わった頃だと思う。親友ちゃんと通学路じゃない道をふざけて帰っていったら、受験を途中離脱した「元親友ちゃん」グループにチクられた。けれど担任の先生が本当に素晴らしい方だったので、恐らくスルーしていただけたのだと思う。この先生なくして私はイジメなしに卒業はできなかったのではないか。「元親友ちゃん」は私と親友ちゃんと3人でいることも多かったのだが、中学受験を離脱してからは公立中に入学する明るい子達とつるむようになっていた。親友ちゃんはその小学校のマジョリティが行かない公立中に進学予定だったので私達はぼっち同士だったのだ。でも私の未熟さを馬鹿にせず、文字通り可愛がってくれ、仲良くしてくれた親友ちゃんには頭が上がらない。
「元親友ちゃん」はといえば、受験期が終わってからは「私と同じ塾に通っていたが合格結果が芳しくなかった子」と私を個人攻撃したことがある。3人で帰っていたのだが冗談の体で傘を植木に放り込まれたのだ。私は内心震えながらも「物語文で読んだイジメのシーンのように”毅然と”(毅然は私が新しく覚えた言葉だった)振る舞わなければ!」と自分を奮い立たせ何事もなかったかのように共に帰宅した。反応して泣くのもムカつくしね。それからはそのメンバーでは帰らず、1人で帰宅するようにした。私はこの頃のことを「合格して私が調子乗っていたのを隠すことができてなかったから妬みを買い、嫌がらせにあったのでは」と推測していたが半分は一歩的な妬みと向こうのコンプレックスだと気づいて「普通でいられない自分への嫌悪感」を今少し拭い去ることが出来たかもしれない。「元親友ちゃん」とは1年後にお祭りで再会したが、何事もなかったかのように再会を歓迎されて拍子抜けしたものの、私も再会が嬉しく水に流した記憶がある。だが「やられた側は一生覚えている」というのは本当だと思う。どうでもいいことだが今思えば「元親友ちゃん」はティーン雑誌nicolaの恋愛漫画のページを好んで読んで下ネタを知っていることを誇り、私に教育しようとしてきた生粋のイタい陽キャ見習いだった。物語クラブにも一緒に入っていたが、書いた物語が芸能事務所のオーディションに合格する話で「リアリティがないな」と子どもながらに思った記憶がある(今思えば可愛らしいと思う)

元親友ちゃん


この子の話が多いのは今思えば境遇が似ていたからだと思う。一時期はかなり仲が良かったが受験が始まってから疎遠になった。まあよくあることではある。どちらも比較的裕福な家に生まれ、中学受験をしようとしていたのは似ていた。彼女を批判ばかりするのは不公平なので私の空気読めなかったエピをもう一つ。
彼女と同じ放送研究会に入っていたとき、放送で静かにしなければならなかったのだが私は文字通りぴょんぴょん跳ねまわっていて他のメンバーに白い目を向けられたのを今でもよく覚えている。私はそのまなざしを受けてもまだその意味を理解できていなかったため、放送室を出て話しかけた後に彼女が無視をし始めてからことの重大性に気づいて焦った。やはり表情の意味を理解できていないと、コミュニケーションの損失はでかい。こういうことが多すぎたことに辟易したのもあって、彼女は距離を置き始めたとのかもしれない。しかし3学期は図書委員会で再会するなど、まあ円満に終わったのでは。

中学1年生


これが個人的には難易度最大だった。全国随一の頭脳の女子たちが集まるということで変人だらけだと思っていたが、友達作りは同じで更に上品でハイコンテクストな会話が飛び交ったため、私はとにかく焦った記憶がある。この点で女子校を選んだのは間違いだったかもしれないと思った。幸い塾が同じだった子に”入れてもらえた”が、ハイコンテクストな会話に自分の知らない芸能情報が加わって、当時嵐のメンバーが誰なのかすら言えなかった私はただ萎縮していた。そのイツメンで、いじられキャラの子をいじっていたときには「本当にいじめられてる!」と勘違いし、助けようとしたくらいには私はソーシャルキュー(social que)が読めなかった。幸いみな「いじめなどという愚劣で時間の無駄になることはしない」という合理的思考の持ち主が多かったため、いじめの心配はまったくなかった。

こんなにもわかりやすいほどに発達障害ぽい遍歴だらけなのに「1つのクリニックでは”発達障害”と診断され、もう一方のクリニックでは”発達障害ではなさそう”と診断途中」なのは一意に
・日本の心理学分野が他国より遅れていること
・精神科が乱立してクオリティに差がありすぎること
・私がいい病院を選べていない可能性
・人気の精神科ほど予約が数ヶ月待ちであること
・愛着障害は発達障害と混同されやすいこと
・女性の発達障害はマスキングが上手いことなど
が原因だと想定されるが、それはさておき、
(中学生編へと続く⋯)

参考文献


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