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映画評:『オッペンハイマー』というノーランの危険な実験
いまさらながら、Amazonプライムビデオで『オッペンハイマー』を鑑賞した。3時間もの長丁場ながら観客を飽きさせないのは、さすがクリストファー・ノーランといったところ。その感想と解釈について書きつけておきたい。
映画と解釈、それ自体を描こうとしたメタ映画
この映画は、科学者オッペンハイマーの半生についての伝記作品である。戦中のマンハッタン計画(原子爆弾開発計画)について映画であると同時に、戦後のアメリカ社会に吹き荒れた赤狩りについての映画でもある。内容豊富であるがゆえ、なかには、原子爆弾の恐怖と罪悪感の描写が不十分としたり、赤狩りの状況を理解する手がかりが不十分としたり、いくつかの不満を観客に抱かせる結果にもつながっているようだ。
しかし私見では、この作品の題材は、それだけではない。ノーランは巧みに、『オッペンハイマー』という作品を通じて、ある理論と実験を遂行しているように思われる。つまりこの映画それ自体が、映画というメディアについての理論を語っており、そしてそれを示そうとする実験ではないだろうか。もしそうであるとすれば、オッペンハイマーの半生は、それを表現するための媒体であるにすぎないといえよう。
では、ノーランの理論と実験とはなにか。まず、本作が執拗に科学者オッペンハイマーというレンズを通して撮影している真の被写体は、一方では(まるで量子力学において光が波としての性質と粒子としての性質を併せもつように)一見すると相反する言動が同時に成立しうる両義性である。また他方では(まるで量子力学において光が波であるか粒子であるか、観測によってその性質が明らかになるように)登場人物の言動が複数の解釈可能性をもつにもかかわらず、それらが観測者によって暴力的にひとつの解釈に還元される苦悩である。
つまり映画『オッペンハイマー』は、主人公をはじめとした科学者ら登場人物たちを、量子力学に範をとり素粒子のようにふるまわせて、どこまで映画として成立可能かを問う、二重に量子力学的な作品にほかならない。
一見すると相反する言動が同時に成立しうる両義性について
オッペンハイマーの態度はつねに両義的(ambiguous)である。それは両価的(ambivalent)であるのとは違う。つまり後者のように「あれかこれか」態度を選択しようとするが決められないのではなく、前者のように「あれもこれも」と両立してしまうような曖昧さなのである。
具体的にみていこう。たとえば、彼はナチスらファシスト政権に反対するがゆえに、その政敵の共産主義にシンパシーを感じており、共産党員の弟や元党員の恋人と交際するが、しかし最終的には党員にならない。あるいは研究者たちに組合活動を呼びかけ自分の研究室を貸し与えながら、アメリカの国家プロジェクトにも関与する愛国者でもあろうとする。また、彼は女性遍歴においては複数の関係をもち、無責任でだらしがなく、恋人を裏切り別の女性を妊娠させて家庭を築くが、その恋人との肉体関係をなかなか断ち切れない。
別の登場人物から指摘された通り、彼は科学者としては優秀かもしれないが、人間としてはナイーブだ。つまり、Aであると同時に非Aであるような、相反するどっちつかずの性格をもっており、場合によってはそれがどっちつかずであることすら認識していない。こうした態度は他人かららすると無責任に思える。政治活動においても、家庭生活においても、彼のあり方は馬鹿げており不誠実ですらある。しかし、オッペンハイマー自身は矛盾した立場のどちらに就くか葛藤しているわけではない。むしろ、彼にとって2つの立場の双方が同じように真実なのであり、彼が苦悩するのはそれが他人から理解されずひとつの意味に還元されて解釈されることである。
そして、彼の態度の両義性はマンハッタン計画において露骨に現れる。彼はプロジェクト・リーダーとして精力的に働きながら、実験成功後には、原爆の大量破壊兵器としての側面にためらいと罪悪感をおぼえて、水爆開発とその拡散に反対さえする。そうした態度に中途半端さや愚かさを見出すことすら可能だ。ここには、しかし、両立不可能ななにかを同時に抱える人間の実相が描写されているように思われる。
実際、オッペンハイマーの生涯を原爆開発者の人生として先取りし、それが倫理的かどうか合衆国の政治的な責任について明らかにしようとする観客の先入観は、後述する赤狩りにおける聴聞会の態度とパラレルではないだろうか。もちろん、そうした鑑賞態度が間違っているわけではない。オッペンハイマーという歴史的人物には倫理的な判断と審判がくだされることになるだろう。
とはいえ本作は、観客にたいして原水爆について倫理的なメッセージを発信しているのではなく、科学者の生涯の多面性それ自体を映画化する実験なのではないか。であれば、原水爆の罪悪感の物足りなさや性的描写の過剰さといった観客の不満は、なかば意図された欠点なのかもしれないーーそれこそがある人間の一生の現実なのだと。こうしたノーランの演出と脚本は、政治的な物語としては欠陥を抱えているが、伝記映画としてはある意味において倫理的であるといってよい。オッペンハイマーはプロパガンダの拡声器ではないからだ。
複数の解釈可能性をもつにもかかわらず、それらが観測者によって暴力的にひとつの解釈を与えられる苦悩について
戦後の赤狩りとその聴聞会のタイムラインは、そうした彼の両義的な態度がひとつの意味に還元されて解釈される場面にほかならない。そこでは、共産党員との関係や、恋人との不倫関係、組合活動といった左翼運動、原爆開発中のささいな言動がことごとく彼の無責任や不誠実として追求される。
オッペンハイマーは波であると同時に粒子なのだが、しかしそれにたいして聴聞会という観測者はどちらであるかを迫る。こうした科学者オッペンハイマーの両義性とそれを解釈する聴聞会の関係は、先述したように、映画『オッペンハイマー』の両義性とそれを解釈しようとする私たちの視線それ自体の関係性に等しい。映画は、まさしく観客に観察されたデータを提供するメディアだからである。こうした二重の関係は、肯定されるわけでも否定されるわけでもなく、ノーランによってそのまま両義的な態度で演出されている。
だが、それだけではない。オッペンハイマーは言うまでもなく科学者であり、トリニティ実験において彼こそが観測者の役割を担う。つまり彼もまた両義性を一つの意味ーーすなわち原子爆弾ーーに還元する存在でもある。そうでなければならないだが、彼は、窮極的にはそれを解釈していないように思われる。いつでも彼は曖昧(ambiguous)だからだ。果たして原爆にオッペンハイマーは、ーーそしてノーランはーー肯定的なのか否定的なのか最後まで掴み所がない。
ここまでの関係を整理しよう。原子爆弾を観察するオッペンハイマー、オッペンハイマーを観察する聴聞会、彼らを観察するノーラン、ノーランの映画作品を観察する観客。こうしたいくつもの関係は、しかし、決定的な一義的解釈を与えられず両義的に曖昧化される。そうした構造に着目するとき、映画評論として私たちが述べうる感想は、両義性を観たという曖昧な観察記録だけなのだろうか。
そうではあるまい。作中においてオッペンハイマーの奇妙な心象風景がしばしば挿入されるが、それはしばしば、彼の精神に危機が迫ったときにスクリーンに奔出することは見逃せない。学生時代に教官を毒殺しようとするとき、元恋人の自殺の報せを聞いたとき、トリニティ実験が成功したあと群衆から歓呼の声で迎えられるときーー人を殺そうとしたり、自殺に追い込んだり、やがて大量殺戮することが決まったときーー彼の視覚は臨界点に達してしまう。彼の手が血に染まっているとしたら、それは原爆を開発したためだけではない。彼という存在が帯びる両義性それ自体のために、彼はいつも死そのものとなる。
オッペンハイマーの真実は、社会主義者なのでもなければ、社会主義者でない。恋人を愛しているのでもなければ、愛していないのでもない。原子爆弾を肯定していうるのでなければ、否定しているのでもない。そうではなく、人を殺戮するほどの曖昧さ(ambiguousness)がオッペンハイマーなのである。まるで、原子爆弾が量子力学的な両義性(ambiguousness)の中で発明されたかのように。
結局のところ、オッペンハイマーにとって原水爆とはなんだったのか
それを受けて『オッペンハイマー』をどのように評価すべきだろうか。徹底的に現実の両義性を撮影したという意味において、この作品は成功している。しかし同時に、その曖昧さを肯定すべきか否定すべきか、なんの手がかりもない、というより、手がかりをあえて観客に与えようとしていない。前者において、本作は傑作であり、後者において、この作品は反倫理的である。スクリーンに映っているのは、科学的合理性を大量破壊兵器へと実用化した「啓蒙の弁証法」(ホルクハイマー&アドルノ)であり、なし崩し的にそれに加担していく「凡庸な悪」(アーレント)の姿にほかならないからだ。その意味において、観客は、単に絶賛するのでも非難するのでもない、両義的態度を迫られている。そしてそうした思索に誘引する限りにおいて、ノーランの実験は、やはり高度で複雑な達成を成し遂げているといえようーー傑作であると同時に反倫理的である兵器のように。