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Vol.5 武士道を体得する~他者を尊び、想ふ 「礼」~
はじめに
はじめまして!無知の大学生と申します!
私は「武士道」を学び、その学びを現代に活かす方法を模索しています。このnoteでは新渡戸稲造の『武士道』を章ごとに読み解き、現代社会における実践方法を考察していきます。
今回は第六章「礼」ついて、その本質的な意味と現代における実践方法を探ります。
第六章 礼
他への思いやりの心
「礼」の根源には、他者への深い思いやりの心があります。
具体的には、「礼」は「寛容にして、慈悲深く、人を憎まず、自慢せず、高ぶらず、相手を不愉快にさせないばかりか、自己の利益を求めず、憤らず、恨みを抱かない」ものであるとされており、その最高形態は「愛」になります。
優美な礼儀作法
「礼」が型として洗練されたものが、作法です。この礼儀作法は武士にとって、社交の必須条件であり、体系化、形式化され、徹底的に教え込まれました。
時折、固定化された作法が、柔軟な思考を妨げるのではないか、という批判もあります。しかし、新渡戸先生はそれは本質ではないと言います。
礼儀作法は、長い年月をかけて洗練された、最も無駄がなく、「優美なやり方」です。一見つまらなそうに見える、定められた作法が、結局は時間や労力の節約になるのです。
この節約によって、「余力」が生まれ、創造性を発揮したり、他のことに労力をさくことができます。
礼儀作法の精神的意義
「礼」の実践は、形式的な作法の習得だけでなく、深い精神修養としての意味を持ちます。
正しい作法を絶えず繰り返すことで、身体のあらゆる器官と機能に完全な秩序をもたらし、肉体と環境とを調和させることによって、精神の支配を行うことができます。つまり、外的な動作が内面の統制力を養うプロセスと言えます。
これは、呼吸を考えると分かりやすいと思います。呼吸は意識的にリズムを変えることのできる「肉体」ですが、この呼吸を整えることで、心を落ち着かせることができる、といったことに近い感覚です。
精神修養の実践としての「茶の湯」
武士はこの精神を鍛える実践を「茶の湯」に求めました。
無駄のない清潔な茶室のなかで、基本の心の静けさ、感情や立ち振る舞いの落ち着き、優雅さといった精神を育んだのです。
優美な同情
礼儀は立ち振る舞いに優美さを与えるだけでなく、優美な同情の精神となって表れます。
相手のことを何よりも尊重し、寄り添うことこそが、「礼」です。
相手の身に起きたことを、自分のことのように想い、泣いている人とともに泣き、喜ぶひととともに喜ぶ、そういった行為が、本当の意味での「思いやる心」であり、「礼」なのです。
体得
今回は、僕の実際の体験をもとに、現代における「礼」の鍛え方を述べたいと思います。
優美とはかけ離れた日常
僕は以前、生活の全てがテキトーの、「いいかげん人間」でした。例をあげるとこんな感じです。
・整理整頓せずに、とりあえずバッグに荷物を詰め込んで中はグチャグチャ。
・洗濯した服は畳んだことがない。全部カゴに放り込む。
・家でご飯を食べて、いつまでも皿を片付けない。
・出したゴミをすぐに捨てない(1dayのコンタクトレンズの包装とか)。
・トイレで手を洗った後は自然乾燥。
・姿勢が鬼のように猫背。
・いつも服装がだらしない(パンツの紐が出ていたり)。
と挙げたらキリがありません。
以前の僕は、これらの行動の質で大きく変わることはないと思っており、最終的な結果が同じであれば、その過程などどうでもいいと思っていました。
このように「優美なやり方」とは程遠い毎日でした。
心に余裕を生む、丁寧な行動
しかし、ある日を境に、「丁寧な行動」、一種の「作法」とも言うべき行いがとてつもない力を持っていることに気づきました。
きっかけは「神道」でした。詳細は省きますが、「神道」の洗練された所作という価値観に影響を受け、それからあらゆる場面で、丁寧な行動を心掛けたのです。
先程の例で言えば、
・朝出掛ける前に、カバンの中を整理整頓するのを日課にする 。
・服を洗濯したら、畳んで決まった場所にしまう。
・ご飯を食べたら、すぐに片付ける。
・ゴミが出たら、その瞬間にゴミ箱に捨てる
・トイレで手を洗ったら、ハンカチで拭く。
・姿勢を正して歩く、座る
・身だしなみを常に整える
並べると、本当に当たり前のことを当たり前にやっているだけなのですが、
たったこれだけで革命的に精神的な余裕が生まれました。
理由は上手く説明できないのですが、明らかに常に心が落ち着いた状態を保っており、予期せぬ事態が起きた時であっても以前ほど焦らず、冷静に対処できるようになったのです。
また、更に重要なことに、自己の内面が整ったことで、以前よりも自然と他者への配慮ができるようになりました。
恐らく、他者を思いやるためには、まずは自己が満たされている必要があるため、自分のことで精一杯だったうちは、そのような余裕がなかったのだと思います。
「礼」の現代的修養法
僕は、この心の落ち着きが極地に達した状態のことを、武士道でいうところの「精神の支配」に当たるものだと思うのです。
そして、先述の通り、その「精神の支配」が自身の「余裕」を生み、相手への配慮を可能にします。個人的には、これが「礼」の「思いやりの心」の正体だと思っています。
<「礼」体得までのロジック>
洗練された動き(礼儀作法・丁寧な行動)を繰り返す→精神の支配によって自身に余裕が生まれる→他への思いやりの心を持てるようになる→「礼」を体得する。
つまりは、毎日の丁寧な行動は「礼」の実践的鍛錬に通ずるものであり、これこそが現代に生きる我々が日々の中で「礼」を育む方法です。
「武士道」の中では、「茶の湯」が精神修養の実践の場だとされていましたが、現代に生きる我々からすると、なかなか手をつけづらいものです。
しかし、身の回りを清潔にする、姿勢を正す、挨拶をする、食事のマナーを守る、といったことは現代の我々でも簡単に意識することができると思います。
ポイントは、「丁寧な行動」にマインドフルになることです。ながらではダメです。感覚的には、一種の瞑想に近いものだと思っています。
おわりに
先述の通り、僕は「武士道」ではなく、「神道」からこの変化を学びました。なので、武士道を読んでいて、この内容に出会ったときには感動を覚えました。
武士道は少なからず「神道」にも影響を受けているので共通点はもちろんあるのですが、
このように大切としている心を共にしていることは、日本古来の精神が大切に受け継がれてきたことを表していると思います。
僕もこのような先人たちが洗練してきたこの美しい心を大事にして生きていこうと思います。
次回は、嘘やごまかしを決して認めない「誠」です!