どう感じたのか教えてほしい「哀れなるものたち」映画感想文
「ロブスター」という、奇妙でおもしろくもあり、不自由で救いがないような映画を観たのは、10年近く前のことだったか。
「期限までにカップルになれなければ、自分で選んだ動物の姿に変えられてしまう」という設定に、ずっと居心地悪く、自分なら何の動物にしようかと必要もないのに考え迷ったのを思い出す。
「ロブスター」や記憶に新しい「女王陛下のお気に入り」などのヨルゴス・ランティモス監督の最新作「哀れなるものたち」。
映画館に飾られた美しい騙し絵のような巨大ポスターに惹きつけられ、主演のエマ・ストーンと目が合ってしまった。
先行上映へ行ってきたものの、頭の中をぐるぐると渦巻くものが言葉にならないまま1週間が過ぎた。
ようやく、どうにか書き終えた感想文を提出する。
公式のあらすじ紹介は以下の通り。
4種類の男と関わりながら人生を生き直す
ベラという女性の身体の中から、なぜまた小さめのベラが半身をのぞかせているのか?
作品の設定を知ればそれをそのまま表現していることがわかる。
成人女性の身体に胎児の脳を移植。
鑑賞後、斬新さと予想外の芸術と真実の衝撃のあまり乗り物酔いのようになり、思考が日常に戻るまでしばらくかかった。
人生に絶望した女性の身投げから始まるこの物語は、「もしも人がまっさらな状態から生き直すことができたとしたらどうなるのか?」を追っている。
赤ん坊のまっさらな脳を持ったベラは、ものすごい勢いであらゆるものを吸収していく。
ただし身体が先に成長しているので、食欲や睡眠欲と同位置に性欲が描かれる。
新しく見るもの、知ること全てがベラにとっては魅惑的な「生」だ。
ウィレム・デフォー演じる老いた天才外科医ゴッドウィン・バクスターは、父親から実験という名の壮絶な虐待を受け、全身がフランケンシュタインさながらである。
よくぞ生き続けたとこの老人にいっとき胸を打たれるものの、彼が続けている実験もまた恐ろしい所業なのだった。
父親に愛されなかったゴッドウィンだが、実験の産物であるベラに対しては、心配し保護しようとする「父性」に目覚めたように描かれる。
ある日ベラの成長を記録するための助手として、医学生のマックス・マッキャンドルスがやって来る。
そして彼は精神と肉体がバラバラなベラの行動と成長を驚きながらも見守り、見つめ続けて恋をする。
ゴッドウィンの提案で、ベラを家に留めるための契約で婚約者となるが、彼の思いをベラのまだ幼い脳が理解することはない。
やがて家で保護される暮らしは、数倍速で成長していくベラにとって無彩色で味気なく、我慢ならない世界となる。
そんな家の中の映像はモノクロだ。
そして自身が蘇生させられた実験室であるその家から、ベラは引き止められながらも外の世界へ旅立つ。
「家」からの解放である。
ベラの見開かれた瞳を通して、これからの冒険に胸が躍る。
誘うのはマーク・ラファロ演じる放蕩弁護士ダンカンで、ベラのことも遊んで捨てるつもりが、そのめくるめく成長と正直で奔放な性にすっかり骨抜きにされる。
この弁護士は、現代社会に普通によくいる男のように見える。
好色で、美しさをほめそやしたり、無知を利用したり、束縛したり、支配下に置こうとしたり。
喜怒哀楽の表現も人間らしく豊かで、ベラが成長して変化する度にいろいろな感情や表情を見せる。
ぐっとこらえて相手に配慮するなどという芸当はしないので、泣いたり怒ったり忙しい。
この「ごく普通の男」は、ベラが夢中になった性の悦びを共有するが、それが通過点であることは明白だ。
パリへ向かう船旅の途中、ベラは老婦人マーサとその連れ合いハリーと知り合う。
そしてこれまで出会ったことのない、本を読み静かな会話を楽しむ彼らから、人生の悦びは性だけではないことを教えられる。素直に、真綿に水が染み込むように、哲学と読書することを身にまとうベラ。
そして「ごく普通の男」ダンカンは、知識と知性を得たベラから捨てられる。
いくつかの国と都市を巡り、たくさんの未知なる冒険をしてきたベラは、かつての家へ帰ってくる。
自分の意思で戻ってきた家は、もうモノクロではなかった。
ベラが獲得した知識や経験を通して眺めると、世界が現実として姿をあらわす。
家から出られずに癇癪をおこしてお皿を投げつけたリビングやそれに続く庭も、全てが変わった。
日差しの中の草木は穏やかな緑で、やさしく風がそよぐ世界にベラは生きている。
ずっと心配しながら待っていた、名ばかりの婚約者マックス・マッキャンドルスの、
「自分の体なのだから、君の自由にして」
というような(記憶がおぼろげ)台詞が印象的だった。
この人物は、ベラが本当に愛するかもしれないという「可能性のある相手」として描かれているように思える。
つまりこのくらい言えないと話にならないということだ。
まばゆい光の中、2人の結婚式のシーンは濃厚過ぎる作品の口直しのシャーベットのようだ。
もちろん、結婚式をしたからといって何の約束も決着も解決もしないのは想定済みである。
物語がとどめを刺してくるのはこれからだ。
ベラ・バクスターの不協和音と協和音
ここで一番好きだったシーンを紹介したい。
映画の冒頭から、弦楽器の不協和音がしつこく追いかけてきていた。
まだ片言しか話せないベラの不機嫌や不安、不満を、音楽が代わって話しているような。
ドレスや衣装の色やデザインが独創的で美しいだけでなく、そのときのベラの成長度合いによって考えられているようで、丈が短いものが長くなったりと内面を視覚でも感じとることができる。
モノクロの家から外の世界へ出ると、景色は一気に色彩を得て、空や雲も建物も乗り物も、家具や寝具の色や形までも、ベラの知らなかった魅力的なものとして造形されている。
決して爽やかな澄んだ色味ではなく、カラフルでもどこかダークな、例えば船の煙が黄緑色という、毒のある色彩だった。
少しファンタジーの味付けをしてあるのはわざとだと思う。
まだ知らないことの多いベラの目を通して見た世界という意味も考えられるし、もし現実の世界と同じ背景でベラの自由な行動や行為を見たら、きっとそのパワーについていけなくて、自分たちの愚かさや盲目さの事実が明白になり過ぎてしまうから。
旅がすすむと、気づけば音楽は協和音になっていった。
ダンスホールで、ベラがある楽器の音に反応する。
ふいごのような装置を足で踏んで空気を送る大きな楽器で、低いアコーディオンのような音色の和音。
送られる大量の空気が一拍子の音楽を刻むと、ベラの全身は好奇心の塊となり、足は自然にホールの真ん中へ。
そして踊りだす、そのダンスたるや。
このときベラは、はじめて「芸術」に触れたのだ。
絞られるような不協和音に代弁されていたときの姿とは違い、力強く全身でリズムを取りながら手足を大きく素早くのばして風変わりなダンス躍る。
それが見たこともないくらい楽しそうで、これがベラがしあわせを感じている姿なのかと思ったら胸が熱くなった。
弁護士ダンカンのエスコートも上手で、巧みに軌道修正しながら同じく激しいダンスを楽しんでいた。
ベラの中に、確かに琴線が存在していた。
なぜ娼館だったのかを消化するまで
旅の途中、お金が必要になりベラはパリの娼館で売春婦として働く。
本人は得意な好きなことで簡単に稼げると何も気にしていないし、
「女が男を選ぶことにすれば?」
などと言って、ここでも重要なことを学ぶのだが、見ている方は何だか心配になってくる。
何も身体を売らなくても。
なぜ娼館なのだろう。
1週間ほど断続的に考えていた。
そして自分の内側に、はしたない女の子はダメ、という声があることに気がついた。
誰かに言われたのか、どこかで習ったのか、テレビや映画で聞いたのか、本で読んだのか、長い年月をかけて繰り返し蓄積した声。それが自分の声になっていた。
これが無自覚の抑圧なのか。
この作品のレイティングは18+で性描写のシーンは戸惑うほど多い。
けれど、まっさらから生き直しているベラにとって、性の悦びは大好きなエッグタルトと同じなのだ。
リスボンではじめて食べて、そのおいしさにもっともっとと吐くまで食べたエッグタルト。
ベラが快楽を貪っているように見えるシーンも、エマ・ストーンの表情からは驚きと発見を感じとれる。
観客の中には演技者のヌードを単なる性欲の対象として見る人もいるだろう。
それは当然自由だ。
けれどエマ・ストーンはそんなことはきっと承知の上で、自在な表現者として輝きを放っている。
俳優、プロデューサーとしてこの物語を思い通りに紡ぐために、そんなちっぽけなものの相手はしていない。
ベラが男性ではなく、女性であることに意味がある。女性を取り囲む世界には、長い歴史を持つ自覚と無自覚の偏見や抑圧があまりに多くあるからだ。
正しいと信じていることが、知らない間に自分を縛っていることもある。
自分の消化不良をふり返り、ただベラに、自分の身体を大切にしてほしいと願っていたのだと言い訳しておきたい。
将軍という名の悪の権化と対決する
さて、まばゆい光の中の結婚式に戻ろう。
式の最中、ベラを「ヴィクトリア」と呼ぶ男が現れる。アルフレッド将軍はベラを、やっと探しあてた妻だと言って連れ帰ろうとする。
将軍という名の通り、戦場でさぞ多くの命を奪ったのだろうと思わせる無慈悲さが伝わってくる。
ベラは怯えるどころか元の身体の持ち主についての真相を「知る」ために、自ら将軍の屋敷へ同行する。
そしてほどなくヴィクトリアが命を絶つことになった悪の根源が夫の将軍であったことを理解する。
将軍は数えてみれば5人目の男とも言える。
だがこの男は単なる危険人物ではなく、まるで「この世にはびこるよくないことを集めて人間の形にした」かのようだ。
他人と言葉を交わすとき、拳銃を持って脅さなければ会話もできないという愚かさぶり。
そういうわけで、ベラが関わった4人の男とは別に、将軍は悪の権化として捉えている。
ベラはこれまで生き直してくる途中で、一般的な社会の常識や道義を知らされてきたが、それを受け入れるかどうかは自分で選んで決めてきた。
例えば「女性は結婚して出産」というもはや古雑巾のような思想、人類は絶えず戦争をしながら長くこの伝統を守ってきた。
過去の将軍たちは戦場に兵士を送るために、産めよ増やせよと言った。
そんな昔のことをと思うだろうか。
時代の大波にのまれて、みんながそうするものだからと安心してスタンダードコースを歩んだ女性は星の数ほどいるだろう。
もしも満たされないのであれば、大波から逃れてもいいし、むしろ心地よい波を自分で作っていいと、ほんの少しずつ言えるようになってきたのは21世紀の世になってようやくだ。
アルフレッド将軍はベラに対し「女性の役割は子ども(出産)」のみであると断言し、快楽を得られないようにするための性器切除を謀る。
物語の中で、食べることや眠ることと同じようにベラの性欲を肯定し、人間らしい悦びとして長い時間を割いて描いてきたことが、この悪行を際立たせる。
ベラが新しい人生で楽しんだのは知らないことを知ること。そして知性はベラの人生を豊かにし、その身を守ることになる。
この現代社会において、将軍の恐ろしい企てが実際に行われていることは驚くべきことに事実である。
監督の意図ははかり知れないが、とにかく無知ということは危険なのだ。
何年か前、これについての報道で真実を知ったとき、衝撃になすすべもなく、ただ自分の無力さに涙した。
ベラが船旅の途中で、ハリーから飢えて餓死する赤ん坊や貧困にあえぐ人びとがすぐそばにいることを知らされたときのように。
悲しみと絶望に泣き叫び続けたあと、罪の意識でベラは言う。
「それでも私はやわらかいベッドで眠る」
現実を知れば知るほど、解決しなければいけない問題がたくさん見えて辛い涙を流したとしても、知らないよりはましだと自分に言い聞かせて、世界に目を向けようと思うのだ。
物語の結末には心から満足だった。
医師になることを決意するベラが将軍にかける
「進化させてあげる」
という言葉通り、おとなしく草を喰む、段違いに進化した彼の姿を見ることができたのだから。
しかし、悪を始末することが目的ではない。
いつの日か性差を超えて、それぞれが自分自身とお互いのしあわせのために、思い合える世に生きたい。
そのために、これからも勇気をもって知らないことを知っていこう。
そして自分の信じることは自分で選びとろう、ベラのように。
最後までおつき合いいただき
thank you so much!