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分け行っても分け行っても青い山
種田山頭火の有名な無季自由律俳句を表題として使わせていただいた。
国語教師が懸命に授業を進めている中、私はノートを取る時間以外、ほとんど教科書か便覧を読んでいた。
特に便覧を読むのは楽しかった。特選集、いいとこ取りだからだ。
その中に俳句のページがあった。
まったく明るくないが、種田山頭火、石川啄木、尾崎放哉。自由律俳句として紹介されていたこの3名の作品は衝撃だった。
五七五じゃない。自由律俳句。そもそも俳句のなんたるかすらをほとんどわかっていないのに、自由律だって。
ここで表題の「分け入っても分け入っても青い山」を読んだ。
分け入っても、分け入っても、青い山なんだろうな!と思った。
青い山だけは悠然とそこに在る、歩いても進まない自分。
風景だけ、高村光太郎の「道程」を想起させる。
どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
簡単に別作品と結びつけることは良くもあり悪くもあるが、俯瞰での風景が近かった。
高村光太郎はわかりやすく、前を見据えていて、その眼差しもが強い。
種田山頭火はもっと漠然としている印象だった。
進んでも近付いている気すらせず、ただ眼前に青い山があるのみ。
作者観と取り巻く風景の違い。興味深いところだった。
石川啄木。
こちらで紹介する句は趣旨から外れる定型だが、啄木を紹介するにはまずこれかと思ったので引用する。
どこの歴史的背景、社会、一個人においても複数回は思うであろうこの句が良い。
一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと
この句は額面通りに受け取っている。
しかし、啄木の人生や人柄を見る限りだと、彼が頭を下げなければいけない回数は少なくとも私より多そうだった。
この句が編纂されている「一握の砂」は代表作と言われる作品なので、一読することをおすすめする。
種田山頭火はこれ。
はじめて目にしたときに衝撃を受け、すぐに作者の名を探した。
草しげるここは死人を焼くところ
草が茂っているそこは死人を焼いていたところ。
この頃、野焼きはまだやっていたのか。そのこと自体が地方の習わしなのかもしれない。
時間の推移が伝わってくる。諸行無常でもある。
尾崎放哉はこれらが好きだ。
入れものがない両手で受ける
足のうら洗えば白くなる
墓のうらに廻る
入れ物がないから両手で受ける。
足の裏は洗えば白くなる。
でも、墓の裏に回るのはどうしてなのかわからない。
これらの楽しみは、それはそうだろ、の向こう側にある。
与えられる恵みのありがたさを表したのか、入れ物がないばかりに差し出した両手からこぼれてしまったものへの悔いなのか。
どれだけ汚れた足でも洗えば白く綺麗になる。それは今までの行いの無為さを表しているのか。
表面はぴかぴかに磨かれた墓でも、裏に回ればまともに掃除をされていないかもしれない。経年を想ったのかもしれない。
ただ、自分が翳った部分が墓であっただけだったかもしれない。
なんでもいい。
上記は私の解釈で、人によっては的外れだったりもするだろう。それでいいと思う。
「これってどういう意味ですか」のベストアンサーはきっとある。
しかし、自分で受けた感銘やインスピレーションはかけがえのない体験である。
句には行間がないから向こう側の余白を見る。読む。
楽しい。
本記事にて出典元を記載するにあたり、本棚を見返し、面倒になってしまったので放哉は検索をかけた。
そして、現代俳句データベースというすばらしい叡智があることを知った。
いわゆる文豪たちが書いた純文学は青空文庫で読めるものが多い。
上記の作者の作品も読める。
内容はもちろんだが、言葉の美しさや文体のリズム等に重きを置いて読んでいる。
個人的に、一文一文がなんてかっこいいんだ!と思うのは井伏鱒二、話がおもしろすぎる!は安部公房だ。
高村光太郎も外せない。授業でやったり教科書に載っていたりする『レモン哀歌』、その詩が編纂されている『智恵子抄』はすべてが詰まっている。
一生かかってもこんなに美しい作品は生み出せない、と無知な自分はいたく衝撃を受けた。
また別の機会に!