
純粋無垢で、恐ろしく鋭い正直さを持つ小さな社会と多様性
【多様性】
ここ最近、よく耳にすること。
幼い子供たちですら、耳にしたことがあるワードではないだろうか。
最近になり、取り上げられるようになったが、【多様性を認める】とは、
各国々の偉い人たちが、口にする遠いものではないはずだ。
誰もがさまざまな苦い記憶と共に、肌感ではずっと感じてきていたのに、なかったことにしていたもののように感じている。
今日、娘がこう言ってきた。
『学校で、声がでかく、だれかれ構わず新年の挨拶をする子がいるねん。
〇〇ちゃん。でもな、その子を見て、誰も挨拶を返さへん。
挨拶というより、こんなふうに言っていたで。
『アイツ、変やな。』って。変なんかな?ママ。』
聞こえよく今風に言えば、回答はこうじゃないかな。
『声の大きさも、誰にでも挨拶したくなるのも素敵やと思う。
声の大きさも、挨拶したくなる衝動も、その子の良さで個性ちゃうかな。
だから、挨拶されたら返そうよ。
変やと思ってるけど、私たちの方が変なのかもしれないよ?その子からしたら。』
本当にそれが回答か?
人って、そんな簡単に解釈できるものか?
異物に対して、そんな綺麗に処理する性を持っているのか?
なんか違う。
そんな気がして、私は返事を濁した。
『何が正しいか。変か変じゃないか。それは、わからん。
その子からしたら、挨拶しない子の方が、変なのかもしれないよ。
ママには、わからんけどさ。』
娘も『わからん。でも、変やってみんな言ってる。』とだけ答えた。
【多様性を認める】
個性を尊重する。受け入れていく。一人も取りこぼさない。
そんな理想論で、この純粋無垢で、恐ろしく鋭い正直さを持つ小さな社会に、何が伝えられるのだろうか。
そんなことを思ったが、答えは出ない。
不公平、差別、偏見。
これらは、私が幼き頃からいつも身近にあったように思う。そして、肌で感じては、この的になりたくなく、普通のフリをして生きてきた。
どれだけ正確に、周囲と同じであれるか。
そこに一生懸命になり、的から外れるために、個性も好きも消しててきたのかもしれない。
無意識に。
そんな長年のシミのような感覚が、一瞬で現代使用の感覚になる方が難しい。
しかしだ。
理解しようとする姿勢。新しい感覚を自分の中に宿す努力はしていきたい。
【多様性を認める】
そんな大それたことは実現できないけれど、家庭内での違いやそれぞれの個性は、すったもんだしながらも知っていきたい。
そうやって、七転び八起き、こんちくしょう精神を感じつつ、相手を知ることや自分を知ってもらうための言葉のレパートリーは増やしていきたい。
そう思うことしか、私にはできなかった。