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『短編小説』消えた名前
駅前の喫茶店で、僕は久しぶりに自分の名前を口にした。
「……あれ?」
違和感があった。舌の上に転がした音が、少しだけ空虚に感じたのだ。しばらく誰にも呼ばれず、誰にも名乗らずにいたせいかもしれない。
店の奥から、白髪のマスターが静かにこちらを見ていた。細長いカウンターの端に座る客は新聞を広げたまま、まるで時間の止まった彫像のように動かない。
「ブレンドでいいか?」
マスターの声に、僕は小さく頷いた。
外は薄曇りだった。ガラス越しに見える街路樹の葉が、わずかに揺れている。蝉の声も聞こえない。夏はもう終わりかけていた。
コーヒーが運ばれてくる。湯気の向こうで、マスターの視線が僕の手元に落ちた。
「ずいぶん久しぶりだな」
僕は一瞬、驚いたふりをしてみせた。
「……覚えてたんですね」
マスターは肩をすくめた。
「そりゃあな。十年も経てば忘れることもあるが、忘れられない顔ってのもある」
十年。
僕は思わずカップの縁を指でなぞった。この町を出て、もうそんなに経つのか。何かが変わった気もするし、何も変わっていない気もする。
「帰ってきたのか?」
マスターの問いに、僕はコーヒーをひと口飲んでから静かに首を振った。
「いいえ。ただ……寄り道です」
「そうか」
それきり、マスターは何も聞かなかった。代わりにカウンターの奥で、古びたラジオのボリュームを少しだけ上げた。ノイズ混じりの音楽が流れる。
僕は窓の外を眺めた。信号が変わり、人々が歩き出す。どこへ向かうのかも知らないまま、ただ時間に押し流されるように。
カップの底に残ったコーヒーを飲み干し、僕はふと思った。
この町のどこかに、まだ僕の名前を覚えている人がいるのだろうか。
考えかけて、やめた。
コーヒー代をカウンターに置くと、僕は席を立った。店を出ると、冷たい風が頬をかすめる。季節は確実に変わろうとしていた。
僕は一度だけ振り返り、それから何もなかったように歩き出した。
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