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蛇と鏡餅 ― 吉野裕子『蛇――日本の蛇信仰』

吉野裕子『蛇――日本の蛇信仰』
講談社学術文庫、1999年(原本1979年)

今年の十二支である「巳(み)」にちなみ、本書を手に取った。

著者によれば、古代日本における文化の根幹は「蛇信仰」であるという。様々な史料を紐解き、あらゆるもののルーツに「蛇」を見出してゆく本書は、大胆な仮説がずらりと並ぶ。

たとえば、鏡(カガミ)。
鏡の語源は、従来「影身(カゲミ)」とされている。しかし著者は、蛇の古語「カカ」と鏡の関係性を見つけ出し、「蛇(カカ)の目(メ)」つまり「カガメ」こそが鏡の語源ではないかと推理する。

あるいは、 禊(ミソギ)。
穢れを洗い清めることを指すこの言葉は、『古事記』や諏訪神社の伝承等を裏付けとして、本来の意味は、新しく生まれ変わることを蛇の脱皮に重ね合わせた「身殺ぎ」ではないかと推察する。

好奇心をくすぐる主張ばかりで、興味深く読ませてもらった。一方で、本書の説が学問的に妥当なのか、それとも無理がある解釈なのか、門外漢の私には判断がつかない。

蛇を祀る神社はいくつもある。古代に蛇をトーテムとした部族がいても不思議はない。そのうえで、著者がきっぱりと述べるほど、古代の日本列島の広範囲に蛇信仰があったと言い切れるのか否か。そこが本書の評価が分かれるところだろう。

以下、松の内は過ぎてしまったが、「第四章 鏡餅考」からいくつか引用する。

(…)時代が降るにつれて、鏡餅の本質は曖昧となり、鏡餅の大円塊は丸い鏡の形に由来すると解釈されるに至る。たしかに鏡餅は円形で表面がつるつるしていて、鏡のようだから鏡餅と呼ばれ、その本来も鏡の模倣、擬(もど)きであったかもしれない。
 けれども、鏡餅がもし鏡の模倣であるならば、それは一重で十分であり、何も二重、場合によっては三重にもする必要はない。

151頁

 二段に重ねられる鏡餅は、自分の身体の上に身体を重ねてトグロを巻く蛇の姿さながらである。また、鏡餅を上からみれば、そこにあるのは大小二重の輪であって、それはまさに「蛇の目紋」である。
 そこで、鏡餅はトグロを巻く蛇そのものの造型であると同時に、蛇目(カカメ)、つまり蛇の目の造型でもあろう。
(…)
 鏡餅は年初に当たって歳神を迎える礼代(いやじろ)、またはその依代(よりしろ)として造られるものであり、要するに、蛇身の造型であると推察される。

152頁

 正月の注連縄(しめなわ)は年縄とも呼ばれる。歳神は蛇として捉えられるから、年縄とは蛇縄を意味する。年縄が蛇の交尾、または蛇身の造型であるならば、小餅は蛇の卵であって、鏡餅がトグロを巻く蛇の造型であることに対応する。年縄と餅は相即不離の関係にあり、次に挙げる資料はそれをよく立証する。

「トシナワ
 正月の注連縄を年縄のいうのは、九州北部に広く行われている。……年縄は必ず餅を搗く晩に作るという所がある。福岡県の志賀直島などではこの間は家の戸を開けず、来ている者も外に出さず、訪問者も戸の外で年縄打ちはすんだかと、声をかけてからでないと入ってこぬ。……」(『綜合日本民俗語彙』第三巻)(傍線筆者)

 年縄、つまり注連縄は正月の飾り、餅は正月の食物という意味だけであるならば、なんでこのように両者の間に同時性が要求されるのだろうか。日本人にとって、正月の注連縄と餅は、すべて祖霊の象徴であって、相即不離、これらがなくては正月は正月にならないのである。

180頁 傍線は太字で示した

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