いぬがしゃべりました ①【はじめに】
<第1話>「はじめに」
「イヌがしゃべったって?」
おっ、サトーさんが意外に食いついた。
彼の黒目がちな瞳を見ればわかる。
私は嬉しくて、
「そ。ご近所のチワワちゃんがね。『おはよう。』って言ったの。それでね、でね…」
「あり得ない。」
ん?
「言葉を話すわけないよ。チワワは低能だ。脳の容量が小さすぎて言語中枢もない。第一、呼吸器官の構造上不可能だ。」とサトーさんはバッサリ。
あきれた顔で、「桃々ちゃん。夢でも見たんでしょ。」
私は肩をすくめて苦笑い。「…そ。今朝見た夢の話だけどね。」と、くたびれかけた学校カバンを芝の上に放り投げた。制服スカートの折り目が崩れないよう両手で揃えて腰を下ろす。
オレンジの夕焼けに輝く大きな運河を臨む『豊洲さきっぽ公園』。
向こう岸には、オモチャ箱みたいにビル群がごっちゃり並ぶ。灯り始めたあの小さな光ひとつひとつに人がいるんだな…、なんて思いつつ、いつものように2人並んで座る。たわいもないおしゃべり。この時間が好きだ。
「イヌがしゃべる夢か…。夢診断では、人間関係のもつれを予兆しているんだ。」サトーさんは何でも知っている。
「え…そうなの?」
「ってことは、誰かと上手くいきたいのかな?友だち?それとも…?」
近ごろ少し大人っぽくなった上目づかいで覗き込む。
「ちょっと、やめてよ。」あんたのことだなんて言えない。
「さすが中2女子。こじらせ、ご苦労さま。」
他人事みたいな顔をするから、ムッとした。
「私だって、いろいろあんのよ。」チクチクする芝を指でちぎる。「あんたさ、よくないよ。すぐそうやってすぐ切り捨てるトコ。あとさ、勝手にネットで買い物したでしょ。ママが怒ってたよ。知らないドッグフードが届いたって。」
「えっ!もう届いたの!?…あ、いや…。」ほら図星だ。
「バレバレだよ、サトーさん。とぼけても尻尾ブンブン振ってる。」
「あ。」
ふさふさとした彼の尾が草をパサパサ勢いよく叩いている。ごまかすように後ろ肢で首を掻くから、リードの金具がカチャカチャ鳴った。
「知らないなら返品しちゃうよ。認める?」
「認めます。返品しないで。」
彼は濡れた黒い鼻をひくひくさせて懇願する。
「あははは、認めた。あはは。」
「あはははは。」
私は笑って草の上に寝ころんだ。真上には黄昏に照らされるひつじ雲。ゆったりと流れていく。
そう、サトーさんは犬だ。
柔らかく白い毛に薄い茶色のブチ。柴犬のような顔つきだけど、素性がよく分からない雑種の中型犬。
そんな彼が私を見下ろしポツリと言った。
「匂いでわかったよ。」
「うん?」
「桃々ちゃんが元気がない時の匂い。ホルモンの分泌に変化が出る。」
「え?私の?」
紺のスクールニットの袖にそっと私は鼻先を寄せてみた。だけどほのかに匂うのは、すっかり温かくなった春の風に乗せた青臭い若葉の香りだけ。
うーん。「さすが嗅覚1万倍。」
彼は真っ黒な瞳で私を見つめて、
「好きだよ。」
「え?」どきり。
「元気のない時の匂い。」
なんだ。「あそ。」
「でもね。」
「なに?」
「元気な時は、もっと好きかな。」
ヒゲの口角をニヤリと上げた。
「もー、サトーさぁん。」
なんだかたまらなくなって、ふわふわ柔らかい毛の首に、ばふっと抱きついた。
「いたた。苦しいよ。」
「甘々トークでごまかさないで。バラすよママに。ドッグフードのこと。」
「それは困る。微分の宿題手伝うから。」
「うーん…よし、商談成立。」
沈みかけた夕陽。遠慮がちに小さな一番星が2人を優しく見下ろしている。
そうなのだ。幸せだ。
ちょっと理屈っぽいところが時々ムカつく犬だけど。
いつまでもこの何気ない幸せな日々が続くと思ってた…。
サトーさんが家に来てからもうすぐ3年。
ある日、なぜだか言葉を話し始めた。
以来、かけがえのない家族として一緒に過ごしている。
…っていう話。
ちょっと待って、II 一時停止。
そんなことあるわけないって?
そもそもおかしくない?イヌがしゃべるって。アニメやCMじゃないんだから。
そこ。
そこは簡単に受け入れてはいけない。
犬が話す物語は、古今東西、数多ある。
だけどなぜ登場人物たちは皆、犬がしゃべる珍事をすんなりと受け入れるのだろう。
なぜ観客は不思議に思わないんだろう。
私は不思議だ。不思議で仕方がない。だからこそ、とても素敵な奇跡のはず。
犬は飼い主の顔をよく見る。
物憂げな瞳で我々の目を見る時、彼らは何を訴えたいのだろう?
もしかしたら世界のどこかに、実は話せるけど秘密にしている犬がいるんじゃないだろうか。
もしもそうなら、なにかとんでもない理由があるにちがいない。
そうきっと、とてつもなく素敵なワケが。
" しゃべる犬 "
その謎に、サトーさんと私は正面から向き合ってみることにした。
これは、そんな夢のような
だけど本当にある…かもしれない。
そんな冗談みたいな ” おはなし ” です。