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自分語りと文体の距離感について

小林秀雄の『本居宣長』は宣長のことではなく小林秀雄の内面がわかると聞いた。宣長を通じて感じた自分のことを書く、ということなんだろう。自分も、といっても小林秀雄に並べるつもりはないのだけれど、自分のことしか書いていないとは思っていて、それを自分にしか関心がないのかと言われるとよくわからないけれども、ただ今も書いていることはそういうことなので、そういうことなのだろう。他人に役に立つというか、ニュートラルというか、文体でもよいのかもしれない。自分語り的な語り口ではなく、それを語ることなのかもしれない。そうだな。たとえば、いま新幹線に乗りながら書いているけれど、途中の風景には平地にぽこぽこと丘のような山が点在する。僕の地元にはない風景で、平地ならではだと思う。これは大阪の堺あたりも古墳とともに似たような風景があり、私は別の土地にいる新奇さを感じる。そういえば前に読んだ本の中で、自分の思っていることを書くというより、風景を描くようにして書くのがよいのだということを見た気がする。じしんの心持ちも風景のように描写する。たとえば、さっき感じていたことを風景的に書くのであれば、かれはTwitterにより煩悩に文字通り支配されていると感じ、ひたすらブロックする作業をした。流れてくるアカウントの右上にある三点リーダをタッチしブロック、タッチしブロックと続けていくと、それに応じてタイムラインは整理されていく。そうか、そういうことなのかとかれは気づく。これは一種の習慣を可視化しているものだと。ある意味Twitterは、その習慣の高いレスポンシブルをもった可視化装置なのだと。だから、瞑想的な呼吸法で自身のコントロールをするよりかは、Twitterのブロックの方がはるかに具体的で実践的な内容なのだと気づいたのだ。たしかにこのような文体はありうるのかもしれない。けっきょくのところTPOであり、畢竟は何を書きたいかによるのかなと感じる。風景書きはこれで書いてて、楽しくは感じた。なんだか小説を書いているような手触りを感じさせるからだ。文と頭との微妙な、ふわっとした距離感は、すこし心地よい。そう感じさせてくれるからだ。なんだろ、この画面というかフリック入力する親指と心の距離を近くするか、遠くするかみたいな雰囲気を感じる。これはこれで面白い。今回はぐちゃぐちゃだけど、最初から距離感を持って書き通すのは試してもよいのかもしれない。

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