夢で汗をかいたようで気持ち悪く、起床後すぐシャワーを浴びているときにロン毛だから面倒くさいのだがついでに頭も洗うことにした。風呂から出て「さっぱりした」と彼女に伝えたら「昨日の夜も入ったじゃん」と指摘されて、あれそうだっけと、しばらく昨日の夜のことが思い出せなかった。冗談ぽく「若年性認知症かもしれない」と取り繕ったが、本当にその可能性はあるわけで、人間であるということはつねに恐れとともにあるなと思った。
先日の日記で宇野千代の本の読書感想文を書いたのだが、「人生は死ぬまで現役である、老後の存在する隙はない」と言っていて感銘を受けた。このごろ「もうすぐ死ぬ」と思いつづけている。視力もガクッと落ち始め、上記のとおり物忘れもある。齢三十三。早すぎる。しかし日頃の不摂生を考慮すると納得がいく。これが死に急いできたツケなのだろう。
のっけから辛気臭い話になってしまった。いま読んでいる本は二村ヒトシの『すべてはモテるためである』。数年前にも一度友人のすすめで手にとったことはあったのだけど、その時分はきちんと読まなかった。改めて買って読んで「これまたすげえ本と出会い直してしまった」と思った。そろそろ押入れからテキトーに本を引っ張り出してもいい頃合いかもしれない。占いっぽく言うと一月は「出会い直し」の時期だという予感がする。
この『すべてはモテるためである』は超手短に一言でまとめると「モテたいならキャバクラへ行ってコミュニケーションの練習をしてこい!」とモテない男たちを叱咤激励している内容で、具体的にどうすればいいかまで書かれている。
2012年に発刊された増補版を読んでいる。AV監督である著者と哲学者である國分功一郎の特別対談があってこれがまたはちゃめちゃに面白い。これだけでもお腹いっぱいになる。この対談「心の穴」というキーワードが続々と出てくる。この概念がたまらなく俺のツボなのである。
恋愛は親子関係をやり直していることになる。これは超パワーワードだ。「心の穴」に突き動かされることが「衝動」なのだと思う。歳をとると落ち着いてくるのは、自分の心の穴の分析が進んで、次第に恋から愛へ乗り換えるからかもしれないと思った。
二村の指摘が鋭すぎる。両者「モテることの弊害」についても語っている。
恋されたいのではなくて、愛されたい。俺はこれを読みながら「真理じゃんか」と思った。たしか宇野千代だったか「恋は綱引き」だと言っていた。恋をしているあいだは「こっちを向いてよ!」の連続で、徹頭徹尾、毎日「闘い」になるのだと思う。二村は「恋は、愛とは逆のことである」とも表現していて、ふと、公園で大号泣した日を思い出した。恋ってつらすぎる。傷つき続ける。それの堂々巡り。「失恋しかけたとき」が一番ヤバかった。死のうってなる。だから俺は早急に愛を学ばなければいけない。恋が成就したあとに必要なのが愛だと思う。未来の自分が愛する人を失っても死なないために、ここにメッセージを書いておこう。そんなときは渡辺和子だ。「苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる」。もうこれに尽きるわと思う。