「使える 弁証法―ヘーゲルが分かればIT社会の未来が見える」(田坂 広志)を読む
2005年に出版された本を今ごろになって、初めて読んだ。ブロードバンドが登場した頃に、ITがもたらす社会とビジネスの変化のトレンドをヘーゲル弁証法で読み解いた書である。しかし、2024年の現在に答え合わせしても見当違いのことはあまりないと思うし、あの頃に出てきた変化の萌芽をよく整理しているのではないか。むしろ、今DXと喧伝されているビジネスモデルの変化も予見していたようにも読める。
ここで著者が活用したヘーゲル弁証法の要諦は、実はマルクスの相棒だったエンゲルスが著書「自然の弁証法」で定式化した内容である。この定式化は天才的だったのだが、彼の歴史の見通しは甘かった。弁証法は物事が発展していく道筋の一般法則であって、それを使う人の知識、眼力、思考力およびその人が置かれた歴史的制約などによって、予見の精度が自ずから異なってくることは致し方ない。
著者が取り上げたヘーゲル弁証法の要諦は主に次の3つである。
①螺旋的発展の法則(=否定の否定の法則)
②量質転化の法則
③対立物の相互浸透の法則
この中で、未来を予見するという本書の趣旨から最も詳しく解説されているのが①の「螺旋的発展」の法則である。物事が大きく変化する時には懐かしい物事が新しい形で(より高い次元で)蘇ってくる、というものである。例えば、ネット・コマースの出現によって「オークション」という形で「競り」のビジネスモデルが復活したり、「eラーニング」によって「寺小屋」で行われたような自律的で個別的な学習が復活したりする例を本書ではあげている。「競り」や「寺小屋」には消えていった理由があったが、技術的な基盤が変化することによって、次元が高い形で復活したわけである。
そうした螺旋的な発展がどういう時に起きるのかを考える時に役立つのが②の「量質転化」の法則である。ネットによる取引コストの圧倒的な低下が様々な新しいサービスやビジネスモデルを生み出す結果をもたらした。液体である水を加熱して沸点に達すると、水蒸気に変わるように、一般に量の変化が質の変化をもたらすことを知っておくべきである。
また、螺旋的な発展という大きな流れの中で懐かしいものが高い次元で新たに復活するとは言っても、新旧の2つの物事は互いに相手を自分の中に含みながら交代と発展を繰り返す点にも注意が必要だというのが③の「対立物の相互浸透」の法則である。本書が扱ったIT社会の将来の予見においては、リアルとネットという2つの大きな対立軸がある。だが、これらを水と油のように別々なものと考えるのではなくて、むしろ、対立するものはお互いに似てくる面があることを指摘している。対立しているように見えるものが、むしろ、融合していく面もありうることに注意すべきである。
こうした法則あるいは定式の根本にある見方・考え方は、あらゆるものは矛盾を内包しているということである。矛盾がものごとを発展させる原動力であって、矛盾がより高い次元に止揚(アウフヘーベン)されることによって物事は発展していくのである。
こうした実用的な弁証法の理解は、ヘーゲルその人の考えよりも、マルクス=エンゲルス的なヘーゲル解釈に近い気がするが、まあ、それはどちらでもよい。ビジネス書にマルクス=エンゲルスがどうのこうのと出てきても面食らうだけであるから。とまれ、他に私が読んだ弁証法に関連する図書の中で有益だったと感じたものを挙げると、ヘーゲル「精神現象学」、エンゲルス「自然の弁証法」、三浦つとむ「弁証法はどういう科学か」の3つだろうか。
私はマルクス=エンゲルスの歴史観や経済理論には与しないが、マルキストであった三浦つとむが弁証法について易しく解説した前掲の書は名著だと思う。