邪馬台国の謎 (5)
前回、
東京学派 白鳥庫吉 ・・・ 邪馬台国九州説
京都学派 内藤湖南 ・・・ 邪馬台国畿内説
をご紹介しました。
邪馬台国畿内説を考古学的アプローチで、補強したのが、富岡謙蔵や笠井新也でした。(前回は、笠井新也を取り上げました。)
富岡謙蔵は、文人画の巨匠・富岡鉄斎の息子です。
父の鉄斎が創作活動に没頭できるようにと、自らの評判が下がろうとも一切構わず、書画作成依頼を選別した孝行息子です。
そんな富岡にとって邪馬台国論争は、趣味に近いものだったのかもしれません。
『京都学派』と交流を深めた富岡謙蔵は、古墳から出土する【銅鏡】が、
九州出土品では、後漢以前のものであること。
畿内出土品では、三国志時代以降のものであること。
に着目し、邪馬台国畿内説を補強しました。
前回取り上げた笠井新也も考古学的アプローチを取り、箸墓古墳が卑弥呼の時代のものとして、卑弥呼 = 倭迹迹日百襲姫命 とし、畿内説を補強することになります。
ここに待ったをかけるべく登場したのが、哲学者の和辻哲郎です。
日本の倫理哲学体系構築に貢献した人物で、『京都学派』とされています。
その一方で、東京大学の教授でもあるという異色の経歴の持ち主です。
邪馬台国論争では、『東京学派』の【邪馬台国九州説】を唱えています。
和辻哲郎は、【神武の東征】が史実からの伝承であると考えました。
考古学的アプローチの登場に対し、文献学的アプローチも軽視出来ないとする立場だったのです。
和辻哲郎の論は、
九州にあった邪馬台国が東遷した(神武東征)
というものになります。
ただ、文献のみでは論拠として弱いので、考古学的アプローチも加わっていくことになります。
この当時、
銅鐸は近畿圏に多く出土
銅矛銅剣は九州圏に多く出土
していました。
また、古事記にも日本書紀にも銅鐸に関する記述がなく、大和政権に銅鐸文化が無かったのではないか? と考えられたのです。
にもかかわらず、考古学上、畿内に多くの銅鐸が出土する。
これは、九州の勢力が、畿内に侵攻してきたからではないか?
土着の文化であった銅鐸文化が葬り去られたため、考古学的出土はあっても、文献的記述がないのではないか?
和辻哲郎は、そう考察したのです。
こうして、邪馬台国東遷説が誕生しました。
考古学・文献学、双方のアプローチによる邪馬台国東遷説は、『東大学派』を中心に、幅広く支持されました。
この説は、1980年に佐賀県鳥栖市の安永田(やすながた)遺跡で、銅鐸の鋳型が発掘されるまで、かなりの影響力を持つことになりました。
邪馬台国東遷説で、最も大きな問題となるのが、
記紀神話と魏志倭人伝の年代の不一致です。
で、本居宣長の【熊襲偽僭説】を取り上げた際、
としました。
これは、【邪馬台国東遷説】を取った論者は、否が応でも【紀年論】に踏み込まざるを得なくなることを示唆したものです。
津田左右吉は、早稲田大学出身ですが、白鳥庫吉から薫陶を受けており、『東大学派』に位置する人物でもあります。
学閥の論理だったのか?
それとも、学究の徒として史料に真摯に向き合ったからか?
津田左右吉は、当時の世相ではタブーとされていた
「皇統」への疑義
を差しはさむことになります。
たしかに、三桁の寿命を持つ古代天皇の記述は現実離れしています。
伝承が少ない、あるいは荒唐無稽というのもあります。
そういった曖昧な史料しかない天皇は史実として扱うのに相応しくないとして、バッサリとカットし、
古代天皇の多くは実在しない
としてしまったのです。
個人的には、実在しないとまで断言できるのかなあ? という疑問符がつきますが・・・
津田左右吉は、徹底して史料批判を行なう学者でした。
第十五代・応神天皇は実在するが、それ以前の天皇の記述に信憑性はない。
第二十二代・清寧天皇から第二十五代・武烈天皇まで実在しない。
としました。
津田の学説は、戦前(太平洋戦争前)には皇室に対する不敬として大問題に発展。
津田事件
として、起訴され、禁固刑(執行猶予付)の有罪判決を受けています。
ただ、この津田の学説は、【邪馬台国東遷説】にとっては、追い風です。
文献の信憑性が不足するとして、好き放題の解釈が可能ですし、天皇が実在しないのであれば、年代比定だって恣意的解釈がいくらでも出来ます。
その分、絶対的指標を失い、論争が決着する可能性を遠のかせることにもなりましたが・・・
いずれにせよ、皇室に関する言論は慎重になされなければならなくなり、戦前の昭和時代、邪馬台国論争は下火になっていったのでした。