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邪馬台国の謎 (15)

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔 親魏倭王卑弥呼 帯方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還 今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝国中人使知国家哀汝 故鄭重賜汝好物也

魏志倭人伝

景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米なしめを派遣した。
難升米は、帯方郡で、天子にお目通りし、献上品をささげたいと求めた。
太守の劉夏は部下の官吏をつけて、難升米を京都(洛陽)まで引率した。
その年の十二月、(皇帝は、)詔書を下し、倭の女王に回答した。
親魏倭王・卑弥呼に制詔す。
帯方の太守・劉夏が使者を派遣し、汝の大夫・難升米と、次使・都市牛利としごり、献上された男の奴隷・四人、女の奴隷・六人、班布二匹二丈をささげて到着した。
汝の住んでいる所は、隔絶した遠さであるにも関わらず、使者を派遣し、貢ぎものを献じるのは、まさに汝の忠孝を示すものである。
朕は汝を大いに称賛したい。
今、汝を親魏倭王とし、金印紫綬を与え、封をして帯方の太守に付託することで仮りに授けておくものとする。
汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(朕に)孝順をなすように勤めなさい。
汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
難升米を以って率善中郎将とし、牛利を率善校尉とする。
銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を授けて帰途につかせる。
絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。
また、特に汝には、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、封じて難升米と牛利に付託する。
帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝を称賛し、愛おしんでいることを周知しなさい。
そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。

銅鏡

このくだりは、貢物が無事に届き、皇帝から返礼がもらえたというお話になります。
この中の「銅鏡百枚」が、考古学上、色々と騒がれている品物になります。
大量に鏡が出てくれば、そこが邪馬台国ではないか? という理屈です。

実際、その理屈で騒がれたのが、奈良県天理市にある『黒塚古墳』です。
33枚もの三角縁神獣鏡が出たということで、邪馬台国畿内説の決定打になるかと思われました。
が、この銅鏡の製作年代は、卑弥呼の時代よりも新しい時代につくられたことが判明したため、決定打にはなりませんでした。
(他にも古墳時代の中・後期頃の銅鏡が大量出土した事例はあります。)

金印紫綬

なお、卑弥呼がもらったのは、金印紫綬です。
使者として活躍した難升米は、銀印青綬をもらっています。
当時は公的な命令書や贈呈品の入った箱を紐で結び、結び目に粘土の塊で封をして、そこに印を押したのです。
「封印」という言葉は、ここから来ているのですね。
これは、改ざん防止のために考案された方法です。
単純ですが、効果は高かったようです。
さて。卑弥呼がもらったのは金印です。
印鑑にも格が定められていまして、皇帝が使うのは、玉璽ぎょくじといいます。
「玉」の材質が判然としませんが、恐らく何らかの宝石なのでしょう。

印鑑は、璽・印・章の三つの呼称があります。

  • ・・・・・皇帝専用。

  • 印・・・・・王や官僚が使う印鑑

  • 章・・・・・将軍が使う軍事用の印鑑

材質ごとにランクがあり、

  • ぎょく・・・・・・皇帝専用

  • 金・・・・・諸侯王や周辺国の王

  • 銀・・・・・上級官僚

  • 銅・・・・・中級以下の官僚

となります。
あとは、印鑑に結ばれている紐(携帯ストラップみたいなもん?)も、色で分けられていました。
色に関するランク分けについては、調査不足でして・・・
六色:皇帝専用、萌黄色:諸侯王、紫色:周辺国王、青色:上級官僚、黒色:中級官僚、黄色:下級官僚
多分、これで合っているとは思いますが、間違っていたらご指摘ください。

ということで、邪馬台国の女王卑弥呼は、親魏倭王の金印紫綬なので、かなり上位の印鑑を賜ったことになります。

魏王朝は、始まったばかりでしたし、呉や蜀と争う中でした。
そんな中で、はるか遠方の蛮族が、わざわざ貢物を持ってきたということは、皇帝の威徳が素晴らしいものであるという風に喧伝できる格好の素材でした。
ですから、魏王朝は、邪馬台国からの使者を最大級の扱いでもてなし、宣伝材料としたというのが、この文面の裏から透けて見えます。
逆に言えば、よくもまあ、この絶妙なタイミングで使者が派遣できたものだと感心してしまいます。
いずれにせよ、このあと、しばらくの間は、魏と邪馬台国は蜜月関係を続けることになっていきます。

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まっちゃん
しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。