邪馬台国の謎 (3)
いよいよ細かい話に入っていこうと思います。
新井白石の邪馬台国論
第一話でも取り上げましたが、新井白石からお話を始めます。
新井白石の研究の特徴は、
魏志倭人伝の記述を事実に近いと考えた。(記紀より正確とした)
発音に着目し、似た発音の土地と距離・方位から、各国の比定を行なった。
強引ではあるものの、歴史考察としての合理性は、それなりにあると思われます。
邪馬壹国 → 邪馬臺国 と書き換え、ヤマト→大和国とします。
一大国 → 一支国 と書き換え、イッシ→壱岐としました。
對海国 → 對馬国 と書き換え、ツイマ→対馬と採りしました。
特に、発音による比定という考え方については、合理的だと思います。
日本は、太平洋戦争の敗戦によるGHQの統治以外に他国や他民族による支配を受けたことがありません。
ですから、土地の名前が大きく変わることは少なく、数百年単位で時間が経っても、当時の呼び名がそのまま残っている事例がかなり多いからです。
ただ。新井白石もまた邪馬台国の比定に悩んだようです。
『古史通或問』では、邪馬台国畿内説を採り、大和国としましたが、
『外国之事調書』では、邪馬台国九州説を採り、筑紫国山門郡としています。
現代の二大論の比定地を選択している辺りは、白石の優秀さを示しているのかもしれませんね。
本居宣長の邪馬台国論
新井白石の死後、登場したのが、国学者・本居宣長の邪馬台国論です。
本居宣長は、医師として働く傍ら、歴史学や日本文学に学び、優れた学識を蓄えていきます。
国学の四大人に数えあげられ、その中でも屈指の知名度を誇る人物です。
他の四大人には、平田篤胤や荷田春満(かだのあずままろ)や、賀茂真淵がいます。
荷田春満の弟子が賀茂真淵で、その賀茂真淵の弟子が本居宣長という関係性になります。
平田篤胤は、本居宣長の死後、その著作に触れて私淑し、
「宣長没後の門人」を自称しました。
さて、肝心の本居宣長は、どのような邪馬台国論を展開したのでしょうか?
結論から先に言いますと・・・
熊襲偽僭説
です。
本居宣長は、邪馬台国と大和政権は別物だと考えたのです。
その最大の理由が、【朝貢】です。
天照大神より日本の支配を任された天皇がつくった大和政権が、震旦に【朝貢】などするわけがない。
権威の箔付けのために、九州の蛮族(例えば熊襲)が、震旦に【朝貢】をしたのだというものです。
この説は、一見暴論に見えますが、非常に面白い説だと考えています。
最大の利点は、『魏志倭人伝』と『日本書紀』の中に出てくる登場人物を無理矢理つじつま合わせする必要がない点です。
卑弥呼が大和政権に関係がない人なら、神功皇后や倭迹迹日百襲姫命との整合性が無くても何ら問題はありませんし、政治状況が異なるのも当たり前。
単純に、邪馬台国九州説で完結してしまうことになります。
他にも、本居宣長は、日本書紀の神功皇后のくだりに出てくる
土蜘蛛族の女酋長・田油津媛(たぶらつひめ)の討伐の話を挙げています。
築後国山門郡でのお話であり、日本書紀の編集者が、あえて卑弥呼を想起させるべく配置した可能性もあります。
女王討伐後、兄の夏羽は逃亡したという記述も残っています。
本居宣長の説を整理すると
邪馬台国は九州の蛮族の国。(邪馬台国九州説ともいえる)
神功皇后の条で討伐された田油津媛が、邪馬台国の女王かその系譜を受け継ぐ者。
ということになります。
なお、本居宣長在世中、九州で大発見がありました。
この発見も本居宣長の邪馬台国九州説を裏付ける証左となりました。
漢委奴国王印
1784年の漢委奴国王の金印の発見です。
この印章についても、複数の論があります。
漢委奴国王:(かんのわのなのこくおう)
漢委奴国王:(かんのいとのこくおう)
どちらで読むのが正しいのか? という論争です。
字面だけで見ると、後者の方が無理がなく読めます。
実際、魏志倭人伝では、「伊都国」という国があり、発音も同じです。
その一方、後漢書東夷伝の中に
とあるからです。
【朝貢】したのは、奴国(なのくに)だと書いてあります。
となると、前者の(かんのわのなのこくおう)という読み方の方が正しいとも考えられます。
伊都国からも【朝貢】があったと考えられなくはないですが、それならそれで、後漢書東夷伝に記述が残っているはずなのではないか? となります。
ところで、この文面にはもう一つ、謎とされる箇所があります。
倭國之極南界也
奴国は、倭國の極南界にある、と読み取るべきなのだろうか?
あるいは、倭國は南国なんだ、という風に読み取るべきか?
他にも色々な説があるようで、判然としない個所といえます。
ちなみに、奴国は北部九州、現在の福岡市周辺にあったという意見でおおむね一致しています。
私の解釈としては、九州全域が「倭国」で「奴国」は「倭国」の北部に位置する国となります。
ちなみに「倭国」とは、統一された国家としての表現ではなく
「倭人の住んでいる地域」
を表わしているのではないか? と考えている次第です。
そう考えれば、「之」を「奴国」とし、「倭国」を「倭人の住む地域」とすれば、
倭人の住む地域は、奴国の南側一帯の広大な地域である。
と、読めなくもないのではないかな? と。
だから、奴国が九州北部にあっても良いのではないかな? と。
もっとも、様々な説があり、どれもこれも面白いので、皆さんもお調べになられると楽しいと思います。