邪馬台国の謎 (11)
男子は大小となく、皆、入れ墨を入れている。
昔から、中国にやって来る使者は、大夫を自称している。
夏后少康の子が、会稽に封ぜられている。
その際、髪を切り入れ墨をして、蛟龍の害を避けたという。
倭人は潜水して魚や蛤を捕ることを好む。
漁の時に、大魚や水禽に襲われるのを避けるために入れ墨をしていたが、いつしか、体を装飾するファッションに転じたようだ。
入れ墨にも色々なものがあり、各国で違いがある。
大きいものや小さいもの、尊卑を表すものもある。
「大小となく」を、
「大人も子供も」と読むか、
「大人(身分の高い人)も小人(身分の低い人)も」と読むかになるのですが、
後者で読解されることが多いようです。
理由は、様々な部族の習慣でも、入れ墨は成人の通過儀礼となっていることが多いためです。
夏后少康とは、
夏后は夏后氏のことで、夏王朝の本姓になります。
少康は、夏王朝第六代国王のことで、その子・無余は、会稽に封ぜられ、越王の祖となっています。
なお、夏王朝は、その実在が疑われることが多い王朝です。
夏王朝を滅ぼしたのが、有名な商王朝(日本では殷王朝と呼ぶことが多い)です。
なお、『蛟龍』は水辺にすむ龍のことです。
想像上の動物と考えられてきましたが、近年、
紀元前1000年頃、中国南部に大型の鰐 (ハンユスクス・シネンシス) が生息していたというニュースがありました。
このことから、龍はワニのことだったのではないか? という説も成立しそうです。
なお、当時の倭人は入れ墨をしていました。(魏志倭人伝に明記)
一方、神武東征の際、大久米命の入れ墨を見た伊須気余理比売が驚いたという記述が古事記にあります。
個人的見解として、古事記のこのくだりは非常に重要に感じています。
というのも、わざわざ『驚いた』という描写を入れたことから、大和地方では入れ墨の習慣が無い、もしくは、少ないがゆえに、伝承として残ったのではないかと考えられるからです。
そして、大和政権の文化ではそののちも、入れ墨は一般化していません。
このことから、仮に大和に邪馬台国があったとすれば、元々あった入れ墨の習慣・文化が衰退していたことになります。
つまり、卑弥呼が神武よりも前の時代の人でないと邪馬台国大和説は成立しないと言えるのではないでしょうか?
このことから、私は、神武東征の時代特定も、邪馬台国論争の上で、重要な要素になるような気がしております。
すいません。
また、目が痛くなってきたので、今日の考察はここまでにします。