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海軍特攻隊の面影が残る鹿屋より

澄みわたる青空とそよ風の中
30数年ぶりに串良平和公園を訪れました
 
階段を上り、慰霊塔の前に佇んだそのとき
まるで何かが憑依したかのように
 
「こんな国にして済まない・・・」と呟き
むせび泣く自分の姿がそこにあった

串良平和公園の慰霊塔
(Photo by ISSA)

正直、自分でも驚いた
そして、「こんな国」とは
いったい、どんな国のことだろうか・・・

戦争が始まり、戦後が始まった場所
鹿児島県鹿屋市には、戦時中、笠野原・串良・鹿屋の3つの海軍飛行場がありました。
 
中でも鹿屋飛行場は海軍航空隊の司令部が置かれ、1941年に真珠湾攻撃の作戦が練られた鹿屋会談が行われた場所です。
 
その後、敗戦が濃厚となった1945年2月、特攻を指揮する第五航空艦隊の司令部が新編され、鹿屋基地からは日本で最も多い908名の特攻隊員が出撃し戦死しています。
 
終戦後の1945年9月には、錦江湾に面した金浜海岸に進駐軍が、本土に初上陸しました。
 
このことから、鹿屋は「戦争が始まり、戦後が始まった場所」といわれています。

鹿屋周辺の海軍航空基地跡地
(Created by ISSA)

鹿屋飛行場跡
鹿屋飛行場跡は現在、海上自衛隊・鹿屋航空基地となっています。
 
1936年4月に海軍航空隊が開設されて以降、戦闘機や陸攻を運用する航空隊でしたが、1945年2月に第五航空艦隊が新編されてからは、特攻を中心とする航空作戦が指揮されるようになりました。

海軍航空発祥の地
(Photo by ISSA)

鹿屋航空基地の歴史
1936年4月  海軍鹿屋航空隊を開隊
1941年2月  真珠湾攻撃の作戦を立案
1945年2月  第五航空艦隊司令部を開設
1945年3月  鹿屋から特攻隊が出撃
1945年4月  菊水作戦が開始
1945年8月  終 戦
1945年9月  進駐軍が金浜海岸に本土初上陸
1954年7月  海上自衛隊 鹿屋航空基地を開設

薩摩半島にある知覧が陸軍特攻隊の基地であったのに対し、大隅半島にある鹿屋は海軍特攻隊の基地で、映画「永遠の0」の主人公・宮部久蔵が最後に出撃した場所が、この鹿屋基地でした。

左:広報かのや(平成25年8月13日号)より抜粋 
右:鹿屋市観光協会ホームページより抜粋   

なお、第五航空艦隊の司令長官だった宇垣纏中将は、終戦宣言がなされた1945年8月15日の夕刻、他の隊員とともに移転先の大分基地を飛び立ち、最後の特攻を敢行しました。
 
定期的に基地見学ツアーも無料開催され、当時の防空壕などを見学することができます。

鹿屋市の史跡について、ご紹介致します。

多くの特攻隊員を見送った鹿屋市の戦争の歴史
(鹿屋市ホームページ)

幾つかの史跡は、VRでも閲覧できるようになっています。

串良飛行場跡
冒頭でご紹介した慰霊塔がある串良平和公園は、かつて串良基地が所在した場所で、ここから出撃した特攻隊員は363名に上ります。
 
幾多の若者が特攻が飛び立った当時の滑走路は、現在は春になると桜が咲き乱れる一本道となっています。

左上:慰霊塔へと向かう道        
右上:幾多の若者が旅立った滑走路跡地  
左下:数多くの慰霊碑が立ち並ぶ     
右下:何故か、行く先々で蝶々が戯れる  
(Photo by ISSA)

ここでは、例年10月に戦没者追悼式が行われています。

地下壕第一電信室
海軍串良基地から出撃した特攻隊から送られてくる通信を受信していた地下施設です。
 
特攻隊員は、敵艦に突入するときに電信を送っていて、電信員は、特攻隊員からの最後の突入電(注2) を見届けていました。

日中は常時、無料開放されており、地下壕内では当時の電信を再現したモールス信号を聞くことができます。
 
(注2) 特攻隊員は、電信キーを押したまま最後の突入を敢行した

当時の佇まいを残す地下壕第一電信室
(Photo by ISSA)

川東掩体壕
掩体壕とは、敵機の空襲等から飛行機を守るために作られたコンクリート製の格納庫のことです。
 
この掩体壕は笠野原基地で使用されたもので、戦時中は零戦が入っていたようです。

零戦の格納庫だった川東掩体壕
(Photo by ISSA)

桜花の碑・神雷部隊宿舎跡
戦争末期、人間爆弾・桜花 (注3) で特攻した神雷部隊が、野里国民学校を宿舎として使用していました。
 
桜花の碑が建つこの場所で、隊員たちは最後の別れの杯を交わしたといわれています。
 
(注3) ロケット推進の有人誘導爆弾で、一式陸攻の下面に搭載されて敵艦の近くまで運ばれた(通常の戦闘機では250kgのところ、桜花は約5倍となる1,200kgの爆弾を搭載)

左上:特攻隊員が別れの杯を交わした場所 
右上:一式陸攻の下面に搭載された「桜花」
左下:神雷部隊宿舎(野里国民学校)跡  
右下:ここでも、蝶々が戯れてきた    
(Photo by ISSA(右上を除く))

金浜海岸
終戦後、連合軍が本土で初上陸した場所で、先遣隊の大佐が「カミカゼ・ボーイはどこだ?」と尋ねたそうです。ここから2,500人の米兵が上陸し、多くの人々が山間部に逃げ隠れたといいます。

上:進駐軍が上陸した金浜海岸 
右:進駐軍上陸地の碑     
下:高須海岸の日本軍トーチカ跡
(Photo by ISSA)

鹿屋航空基地史料館
旧海軍からの海軍航空に関する史料館で、元々、海上自衛隊・鹿屋基地内にあった広報ブースを移設し、一般開放したものです。
 
2階には日本海軍の傑作機・零戦 (注4) と、特攻隊員が残した沢山の遺書、その他の史料が多数展示されています。
 
入館料は無料、収蔵品は6,800点以上、1993年の開館から累計200万人を超える見学者が来訪しています。
 
(注4) 1992年、史料館の着工に合わせたかのように錦江湾と吹上浜で相次いで零戦が発見され、鹿屋基地の隊員らの尽力で1機の零戦が蘇った

復元された零戦と数々の収蔵品
(Photo by ISSA)

2016年1月には、鹿屋航空基地で、別の機体によるデモ・フライトが行われました。

史料館の外には、戦時中に活躍した大型水上飛行艇・二式大艇が展示されています。

世界で唯一現存する「二式大艇」
(Photo by ISSA)

この飛行艇の技術は、現在、日本が世界に誇る海上自衛隊の救難機「US-2」 に引き継がれています。

観光物産総合センター
隣接する観光物産総合センターでは、名産品などのお土産が販売されているほか、観光協会レストランでは、ご当地カレーなどが飲食できます。
 
また、ドラマ版「永遠の0」で使われた零戦コクピットのレプリカや、実際に鹿屋を訪れた百田尚樹氏のメッセージなども展示されています。

左上:名産品販売所     
右上:鹿屋海自カレー    
下:零戦コクピットのレプリカ
(Photo by ISSA)

史料館の周りには、海上自衛隊の創設以来、海の守りに任じてきた数々の航空機が展示されています。

左上:対潜ヘリコプター「HSS-2」 
右上:史料館の石碑       
左下:対潜哨戒機「P-2J」    
右下:多用途機「R-4D」     
(Photo by ISSA)

特攻隊について思うこと
私は、彼らと同じ年頃に初めてこの史料館を訪れたとき、彼らが残した沢山の遺書を、ぐしゃぐしゃに泣きながら読みました。
 
以来、行く先々で様々な史跡や史料館を訪れては書物を読み、体験談に耳を傾け、特攻について人一倍多く考えてきました。
 
そして30数年の月日が流れ、今度は彼らを送り出した親の年齢となって、再びこの地へと招かれたのです。

(Photo by ISSA)

今なら、送る側と送られる側、両方の気持ちが痛いほどに分かる
 
私は、彼らの本当の想いに
辿り着けただろうか・・・
 
私は、彼らの夢見た日本を築く
一助になれたのだろうか・・・
 
そのような思いから、冒頭で述べた串良平和公園で、「こんな国にして済まない」という言葉が口を衝いて出たのでしょう。
 
私が、この歳でこの地に導かれたのは、これからも特攻隊の真実の姿について学び、発信し続けよ、という天命かもしれません。

特攻隊の真実の姿とは
これから、特攻隊を語る上で重要な3つのポイントについて述べたいと思います。
 

📌 特攻はテロではない 📌
海外メディアなど、未だ特攻隊を自爆テロと同列に扱う論調が見受けられることは、とても悲しいことです。
 
特攻とテロで共通しているのは「みかけ上、自らの命を犠牲にしていること」その一点のみです。しかし、実態は全く異なります。

(Photo by ISSA)

米国務省は、テロのことを「非国家組織によって行われる、政治的な動機による、民間人など非武装目標への計画的な暴力行為」と定義しています。
 
しかし、特攻隊が攻撃対象としたのは軍艦であり、無垢の民間人を対象とし、恐怖におとしめたことは一度もありません。
 
また、隊員の思想・心情に政治的な目的などは微塵もなく、ましてや狂信的なテロリストなどではありません。
 
特攻は「この定義には全く当てはまらない」ことは明白なのです。
 
万策尽き果てた末に身を挺してでも愛する人たちと郷土を守りたかった。その思い、その姿は、テロなどとは言わないのではないでしょうか。
 
📌 崇高な人間性 📌
だからと言って特攻隊を美化し、戦争を肯定するつもりは毛頭ありません。
 
他方で、彼らの生き様には、私たちが手本とすべき美しい青年の姿が凝縮されています。

(Photo by ISSA)

親兄弟への思い遣り
仲間を大切にする気持ち
子犬を可愛がる慈しみの心
嘘偽りのない誠実な人柄
勇敢で責任感溢れる行い
 
もちろん、あの時代なりに悪いところは沢山ありました。
 
ただ、かつての日本人が当たり前のように備えていた美徳が失われつつある事実は否めないと思います。
 
📌 彼らの本当の想い 📌
隊員たちが出撃前に残した数々の遺書には、いずれも泣き言をいわず正々堂々と死地へ向かう決意が書き綴られています。
 
それは、誰かに強要されたのではないかと勘繰りたくなるほど、達筆で勇ましいものばかりです。

おびただしい数の遺影と遺書が語りかける
(Photo by ISSA)

しかし、それらの遺書をみていくと、次第にその行間や言葉の端々に秘められた優しさとか人間愛がひしひしと伝わってきます。

ドラマ「永遠の0」第3夜より

揺れ動く彼らの本当の胸の内を敢えて代弁するならば、恐らく次のようになるでしょう。

戦争なんてしたくなかった
自分にも叶えたい夢があった
日本は負けてしまうかもしれない
連合軍の上陸を許せば
他のアジア諸国のように
日本も植民地化されるだろう
家族や大切な人たちは
いったいどんな目に遭うだろうか

だけどもう
戦える武器は残されていない
無念だけど
体当たりで
1隻でも多くの敵艦を沈め
連合軍の上陸を食い止め
愛する人達を守ることが出来るなら
本望だ・・・

そういう苦悩の末に
自らの意思で
究極の愛を選んだ
 
そして後世に
明るい未来を託した
夢溢る世の中であれと

(Photo by ISSA)

おわりに
〜 悲惨な戦争を二度と繰り返さないために

特攻隊員は、現代人には及びもしない崇高な人間性ゆえに、郷土と家族を守り抜く覚悟で自ら誇り高くその道を選び、明るい未来を信じて短い命を捧げました。
 
だから、特攻隊のことを、平和な時代の価値観だけで安易に断じることなど出来ないと思うのです。
 
当時の厳しい情勢を踏まえながら、特攻隊のあるがままを受け止める。
 
そして、若くして散った彼らの本当の想いや、崇高な人間性と真正面からしっかり向き合って、夢溢れる明るい未来の再建を託されたということを、私たち一人一人が心の中に留めておく。
 
「悲惨な戦争を二度と繰り返さない」とは、こういうことではないでしょうか。

近いうちに、知覧の方にも再訪してみたいと思います🍀
 
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