母が遺したもの
今回は、はじめに
遺品整理のことを話した上で
母方の祖父母と、母のことについて
お話ししていきたいと思います
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母が亡くなったあと
実家に遺された物の
あまりの多さに辟易した
当初は、廃品回収業者に一切合切
持っていって貰おうと考えたが
心情的に、そこまで合理的にもなれず
遺品整理を名乗る業者に相談してみた
ひとつひとつ、遺品を吟味しながら
要る要らないの仕分けを手伝ってくれる
そのようなイメージを抱いていたが
実際は、そんな感じではなかった
これは、自らの手で仕分けが必要
そう考え直した私は
実家からの退去日を先送りし
遠方から、何度も何度も帰省して
遺品整理に取り組むことにした
それは、大変な作業ではあったが
遺品整理を通じて
私は多くの学びを得ることが出来た
(そのことについては、後述)
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さて、母方の祖父のことから話そう
明治の後期に生まれた祖父は
熊本大学医学部を卒業し
1935年に、27歳の若さで
済生会熊本診療所の
初代院長に就任した
済生会は、明治天皇ゆかりの
歴史のある病院だ
その後、1938年に祖母と結婚し
母を含む子宝に恵まれた
これは、祖母の自伝から
抜粋したものである
母は、祖母に連れられて
舞鶴から門司に到着した祖父を
出迎えに行ったが
長いこと会ってなかったので
しばらくは、お互いに
とても不慣れな感じが残ったという
祖父は、延岡で医師に復職し
馬見原病院の院長を経て
1953年に熊本市内に
自宅を兼ねた病院を構えた
しかし、その僅か1週間後 ・・・
新居は白川大水害に見舞われた
それは記録的な大水害で
家財道具一切を流出し
新居はあっという間に
滅茶苦茶になってしまった
戦後の貧困に耐えてきた一家は
度重なる不遇に耐え
どん底から這い上がっていった…
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さて、母の話をしよう
母は、熊本市内の高校に進学すると
体操部員として活動した
卒業後は、実家で
祖父の診療を手伝いつつ
OLとして企業にも勤めた
母の明るい笑顔は
色んなところで人目に
止まったらしく
地元企業のCMにも起用された
そして、1965年の春に父と結婚
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両親の馴れ初め話と
その後、私たちが生まれて
一軒家を設けたことは
前回、話したとおりであるが
取り分け、私 ISSA は
怪我の多い子供だった
ガラスのコップを素足で踏みつけて
足の裏を十数鉢も縫ったり
ドラム缶の焼却炉を
飛び越えようとして失敗し
右腕に火傷を負ったり
学校のプールでバク転飛込をして
壁面で頭頂部を強打し
辺りが血の海になって
救急車を呼ぶ騒ぎになったり
その度に「またか!」
と叱られながら
祖父に診てもらっていた
私の右手には
祖父の執刀で切除してもらった
イボの傷跡が今でも残っている
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生来的に、母は教育者であった
親父にもぶたれたことないのに
(アムロみたいに?)
母からは、色んなことで
厳しく叱られた
素行が悪いと、すぐビンタが飛んできて
その度に、目が覚めるような思いがした
私は、そのように物事の善悪を
厳しく叩き込んでくれた母に
今でも心から感謝している
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思えば、母は笑顔が印象的で
社交的で、実に多才だった
教育熱心ゆえにPTAで活動したほか
医療事務、ホームベーカリー、刺繍、
水彩画、油絵、編み物などを通じて
積極的にコミュニティと関わった
遺された沢山の賞状が
そのことを物語っている
学生の頃、当時はまだ珍しかった
手作りのガーリック・トーストや
ピロシキがとても美味しかった
油絵、水彩画、刺繍、編み物は
遺作が残っていたので
折角だからこの場をお借りして
紹介しておきたい
先ず、油絵(一部を抜粋)
受賞作品もあったはずだが
今となっては
どれが受賞作品なのかは
分からない
水彩画も描いていた
刺繍もやっていたし
後年は、編み物にかなり熱心だった
「ほらっ!編み物し過ぎて
こぎゃん指が曲がってしもた!」
と、いつも冗談めいて
話していた母を思い出す
時折、編み物仲間と
展示会を開いていた
「アートニット」というらしく
ニットデザイナーの広瀬光治さんは
この道では有名なお方のようだ
このように、母が
大変、手先が器用だったのは
祖父譲りだったのだろう
祖母の自伝に
次の記述が見つかった
祖母も、母も、
とにかく達筆で文才があった
そして私自身はといえば
絵心はないが
割と手先が器用で、文才もある
それは、すなわち
両親・祖父母が持っていた
資質や真心は、子や孫に受け継がれ
渾然一体となって生きている
ということなのかもしれない
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話は変わるが、母の性格は
「不思議ちゃん」なところがあって
ナゾ過ぎる言動が
しばしば見受けられた
猫好きで、行く先々で猫をみかけると
とりあえず、ナデナデしに行く
ただ、いつも扱いが雑で
あるとき、実家に住み着いた野良猫に
「なんねアンタ!そこにおったとね
ちょっと待っときなっせ!」といって
持ってきたカツオ節を
高窓からばらまく・・・
また、健啖家だった母は
そのことに自覚がなかったようで
回転寿司に行くたびに
「ワタシは最近、食欲がなかとたい」
といいながら
気がつくと目の前に
十数皿を積み上げている
なんてことが良くあった …
バスを降りる時、運転士に
無理やりお菓子を握らせたりとか
ピュアであるが故に
周囲はいつも
「しょうがねえなあ・・・」
となってしまうのだ
そして、父との決定的な違いは
母は何かと世話が焼ける人だった
ということ
しかし、今にして思えば
母は、それによって
「お世話をしたい人が居る」という
尊い幸せを与えて続けてくれていた
故郷に、お世話をしたい人が
もう居ないというのは
とてもとても寂しい事なのだ・・・
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さて、本題である
「母が遺したもの」
について語ろう
それは、やはり父の場合と同じく
私自身の中に確かに根付いている
母が大切にしてきた
「生き方」や「考え方」なのだろう
ただ、
大らかな家柄であった父方には
「利他の心」や「一期一会」といった
「奉仕の精神」が中心にあった一方
躾けに厳しい家柄であった母方には
物事の善悪や、恥ずべき行為など
「倫理・道徳観」が中心であったと思う
私はこの、一生に一度
あるかないかの
遺品整理という機会を通じて
ファミリーヒストリーと向き合う
という、かけがえのない時間を得た
自らの手で遺品を整理する
これは体力的にも、気持ちの上でも
大変、苦しい作業であるが
敢えて、そうすることで
初めて見えてくるのは
若き日の両親・祖父母の等身大の姿・・・
彼らもまた、自分と同じように
未来に希望を持ち
純粋であるが故に傷つき、悩みもした
誰かにとり、愛おしい存在であった
そして、彼らは何を信念とし
如何なる才能を開花させ
どんな人生を歩んできたのか・・・
その物語に
しっかり目を向けることで
今の自分が、父方、母方それぞれから
どのような資質や思想、考え方を
受け継いだかが浮かび上がり
自分はいったいどこから来て
この先、如何に生きるかが
より鮮明に見えるようになる
これが、冒頭で述べた
遺品整理を通じて得られた
貴重な学びだった
父が亡くなった2020年以降
随分と、涙もろくなったものだ
深淵の縁に立たされ
沈思を重ね
たくさんの涙を流しましたが
「魂の成長」という名の
旅路において
涙は、より高次の自分(魂)を
呼び覚ますための良薬
なのかもしれません・・・
お母さん …
今まで
本当にありがとうございました🍀
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