横須賀からみる日本開国史(前編)
ある調査によれば、人は年齢を重ねると歴史への関心が高まる傾向があるそうです。私自身もその傾向があるようで、5月7日付の「コロナ自粛下でのジョギングのすすめ」でもふれたように、時々、ジョギングで心身を鍛えながら周辺の史跡を巡るようなことをやってます。
特に、日本史上重大事件のひとつに挙げられる幕末の黒船来航から明治維新に至る時代は、歴史愛好家の心をひきつけてやみません。
今回は、多くの方に知って欲しい日本の開国史について、横須賀を中心にまとめてみました。
前編では浦賀・久里浜方面を中心に黒船来航から鎖国の終焉に至るお話を、そして後編では横須賀方面に舞台を移して横須賀が日本海軍の拠点となっていく姿についてお話していきます。
1 黒船来航までの時代背景
日本は江戸時代初期の1639年から200年以上にわたり鎖国を続け、日本人の海外渡航や大船建造禁止など統制を行ってきました(1636年から長崎の出島のみを対外窓口として開放)。
18世紀後半になると異国船の目撃例が増えはじめ、幕府は1791年に異国船取扱に係る通達を出します。
その後、フェートン号事件(1808年)やゴローニン事件(1811年)などをきっかけに1825年に「異国船打払令」が出される一方、モリソン号事件(1837年に生起した非武装商船に対する発砲事件)への反省から、1842年に「薪水給与令」が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていました。
1849年、難破捕鯨船員等の返還を求めてアメリカ海軍士官ジェームス・グリンが来航し、強硬な交渉の末に解放に導いたことが後押しして、1835年に設立されたアメリカ海軍東インド艦隊司令長官に任命されたマシュー・ペリー率いる艦隊(以下、「ペリー艦隊」)が日本に派遣されることになったのです 。
【参考】アメリカによる日本開国要求の背景
① 1842年のアヘン戦争後に中国に進出するなど、アメリカは他の西欧諸国に比べてアジア市場に出遅れていたこと
② 産業革命後、灯火に使用する鯨油の需要が増加したことに伴い、好漁場であった日本近海における捕鯨船の寄港地確保が課題になっていたこと
2 黒船来航
1852年7月、幕府はオランダ商館長から長崎奉行宛の書簡を通じて、アメリカが日本との条約締結を求めて艦隊を派遣することを事前に知っていましたが、実際にペリー艦隊が姿を現したのは、それから1年後の1853年7月のことでした。
ペリー艦隊は琉球王国を経由して、7月8日、浦賀沖に到着します。
特に、蒸気外輪フリゲートのサスケハナとミシシッピは、日本人がそれまでに見ていた異国船とは明らかに違うものでした。
黒塗りの船体や、煙突からもうもうと煙を上げながら外輪と蒸気機関で航行する様をみて、当時の日本人たちは「黒船」と呼びました。
ペリーは、身分の高い役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して上陸すると脅しかけ、更に、武装した短艇を出して浦賀港内を測量させるなどして、幕府を威圧しました。
7月10日、佐久間象山と吉田松陰などの門弟は、浦賀の徳田屋に集まって海防策などを話し合ったといいます。
7月11日、早朝からペリーの測量艇隊は、幕府が打ち沈め線として設定していた観音崎と富津を結ぶラインを越えて江戸湾内に進出します。
測量隊は、シーザーがローマを攻略したとき、ここを越えれば敵を攻略できると確信したといわれるルビコン川になぞらえて、観音崎近くの旗山崎をポイント・ルビコンと命名しました。
この行動に幕府は衝撃を受け、国書を受け取ること止む無しとの結論に至ります。
そして、7月14日にペリー率いる一行が久里浜に上陸、会見に臨んだ浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄らが、開国を求めるミラード・フィルモア、アメリカ合衆国第13代大統領からの国書を受理しました(注:浦賀奉行所は、幕府から黒船交渉の全権が委任され、江戸湾警備の中心的存在となっていた)。
7月15日、ペリー艦隊は浦賀より北上して小柴沖(現在の横浜市金沢区の沖合)で錨をおろし、その後、幕府に対する示威のため、ミシシッピ号を江戸方面を望見できる羽田沖まで進めたのち、小柴沖に引き返します。
翌7月16日に猿島沖に移動し、7月17日に出港してペリー艦隊は日本を後にしたのでした。
3 黒船来航後の状況
その後、幕府はアメリカによる開国要求にどう対処すべきか頭を悩ませます。ペリー艦隊が去ってわずか10日後の7月27日、意思決定者たる将軍家慶が死去し、後継者の家定も病弱で、将軍が国政を担える状態ではありませんでした。
また国内は、開国派よりもむしろ開戦・攘夷派や開国拒否派などが多勢であったこともあり、老中らもこれといった打開策は打ち出せずにいました。
そのため、老中首座の阿部正弘は、8月5日、各大名・旗本から庶民に至るまで、国政に加わらない人々にも打開策についての意見を求めることとしました。
開幕から国政を単独で決めてきた幕府が、国政に発言権のなかった外様大名や庶民に意見を求めたのは初めてのことでした(このことは、その後、幕府の権威を下げることにつながった)。
さらに阿部は、江戸湾警備を強化すべく、8月26日に砲撃用の台場造営を命じます。
当初、富津-観音崎、本牧-木更津、羽田沖、品川沖の4つの防衛ラインが検討されましたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営されることとなります(このときの第3台場が、現在のお台場)。
砲台建設に加え、艦船保有に向けた動きも活発化します。ペリー艦隊が去って1週間後の7月24日、オランダへの艦船発注が決まり、更に8月初旬、国内における大船建造禁止令も解禁し各藩の艦船建造を奨励したほか、10月21日、幕府自らも「鳳凰丸」を浦賀造船所(後の浦賀船渠)で起工しました(1854年5月に完成)。
鳳凰丸の建造は、浦賀奉行所与力の中島三郎助らが中心となり進められました。中島三郎助は、浦賀奉行所与力・中島清司の子として生まれ、黒船来航の際は、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦サスケハナに乗船。その後、浦賀奉行・戸田伊豆守氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともにアメリカ側使者の応対を務めた人物です。
黒船の船体構造、搭載砲、蒸気機関等を入念に調査し、ペリー帰国後、老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張したといわれています。
なお、吉田松陰も桂小五郎に「造船術や海軍の基礎を学びたいのであれば、中島三郎助を訪ねよ」と話しており(桂小五郎は1854年1月に中島三郎助に接触)、中島が当時の洋式軍艦の先駆者であったことがうかがわれます。
12月7日、幕府は2年前にアメリカから帰国し土佐藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカ情勢などを報告させました。
4 黒船の再来航
翌1854年2月13日、ペリーは再び琉球王国を経由して再び江戸湾に来航しました(当初、猶予は1年だったが、ペリーは将軍家慶の死を知り、国家の混乱に乗じるために猶予を半年に短縮した)。
このとき来航したのはサザンプトン、サスケハナ、ミシシッピ、ポーハタン、マセドニアン、ヴァンダリア、レキシントンの7隻でした(最終的に、3月19日までにサラトガとサプライの2隻が横浜沖でペリー艦隊に合流し、終結した9隻のアメリカ艦隊の威容に時の日本人は大きな動揺を受けた)。
2月13日から浦賀奉行所との間で、応接場所について折衝が始まりました。奉行所は浦賀の館浦に応接所を建てたのですが、ペリー側は納得せず、2月27日になって、横浜で決着します。
そして3月6日、横浜に応接所が完成し、3月8日、ペリー率いる一行446人が横浜に上陸しました。
3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられ、条約草案の受け渡しや会談を経て、下田と函館の二港開港が合意されました。
5 日米和親条約の締結と鎖国の終焉
協議の末、3月31日、横浜で全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約) が締結され、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が終焉することになりました。その後、6月17日に和親条約の細則を定めた下田条約が締結され、ペリー艦隊は6月25日に下田を後にして帰路についたのです。
6 日米修好通商条約
日米和親条約締結から約2年後、1856年8月に来日したアメリカ領事タウンゼント・ハリスの働きかけにより、1858年年7月29日、日米修好通商条約が結ばれました(その後、同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの間でも締結(安政五か国条約 ))。
この条約により、日米和親条約で既に開かれていた箱館のほか、新たに横浜・長崎が開港され(ただし、下田を閉港)、本格的な貿易が開始されました。
また、公使の交換、開港場の外国人居留地の設定等が認められたのですが、領事裁判権など、不平等な一面もありました。
この頃、未だ12代将軍・家慶の死後の後継者問題は続いており、時の大老・井伊直弼は天皇の許諾(勅許)なしに条約を締結したのですが、これを糾弾する声が高まったことから、井伊直弼は尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らを100人以上を弾圧し、このとき吉田松陰ら8人も死罪に処せられました(安政の大獄)。
この弾圧は桜田門外の変を誘発し、1860年3月3日、井伊直弼は桜田門外の杵築藩邸の門前で関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士らに襲撃され、殺害されたのでした。
【参考】黒船来航が坂本龍馬に与えた影響
黒船が初来航した1853年7月、坂本龍馬(当時17歳)は北辰一刀流・千葉定吉道場の門人として江戸に居ました。
龍馬も土佐藩士として沿岸警備に駆り出されたようですが、この頃、遠目ながら黒船を見た事を手紙に残しています。
龍馬がどこから黒船を見たのかは定かではありませんが、黒船を見て衝撃を受け、後の思想や行動、ひいては歴史の転換点に大きく影響を与えたことは間違いなさそうです。
黒船が去ったあと、龍馬は、同年12月に軍学家で思想家の佐久間象山の私塾に入学、また10年後の1863年には日本海軍の創始者・勝海舟に弟子入りして攘夷派から開国派へと転向したと言われています。
その結果、後の神戸海軍操練所(1864年)、亀山社中・海援隊(1865年)、薩長同盟(1866年)、大政奉還(1867年)、船中八策(1867年)などの様々な動きにつながっていったのです(船中八策は「新政府綱領八策」となり、明治政府の政策綱領「五箇条の御誓文」に受け継がれた)。
前編はここまでとなります。後編では、舞台を浦賀・久里浜方面から横須賀方面に移して、横須賀が近代日本海軍の拠点となっていく姿についてお話していきます。