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日本神話ゆかりの地を訪ねて(前編)

日本には様々な神社がありますが、中でも、私は何故か日本神話や天皇ゆかりの神社というものに、人一倍、魅力を感じてきました。
 
特に、私の心を虜にしてやまないのは「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と、「レイライン」の神秘です。
 
これまでに探訪を重ねてきた日本神話ゆかりの地の集大成として、前編では「天叢雲剣」について、そして後編では「レイライン」についてご紹介していきたいと思います。
 
1 三種の神器
草薙剣
(くさなぎのつるぎ)としても有名な天叢雲剣は、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と並んで三種の神器(さんしゅのじんぎ)(注1) のひとつとされ、初代・神武天皇が即位する前の、神話の時代から受け継がれた神の剣と言われています。

三種の神器(Created by ISSA)

(注1) 三種の神器は、いわば「レガリア」(正統な皇位継承者の証)であり、古来、天照大御神から続く万世一系の血統と、三種の神器を受け継いだ者が「天皇」として尊崇されてきた
 
これらは、天皇陛下とともにこの国と国民を守り続け、日本は三種の神器と共に繁栄してきたと言っても過言ではないでしょう。
 
2 天叢雲剣の発祥 
神代の時代、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟・須佐之男命(すさのおのみこと)は、高天原(たかあまはら)で粗暴を働いたとして追放されます。
 
須佐之男命が出雲国に来ると、櫛名田比売(くしなだひめ)という名の娘と年老いた両親が泣いていました。
 
理由を尋ねると、山奥に住む八俣大蛇(やまたのおろち)が年に一度、里に出てきては娘を1人ずつ食べるというのです。
 
そのため、8人もいた娘は今では櫛名田比売だけになってしまい、今年もまた大蛇が娘を食べにくる時期になっていました。

左:樹齢1300年の杉
上:スサノオ館  
下:須佐神社   
右:八俣大蛇公園 
(Photo by ISSA)

話を聞いた須佐之男命は、八俣大蛇を退治することにしました。
 
八俣大蛇は、家の入口に予め準備しておいた強い酒を入れた大きなカメをのぞき込んで、勢いよく酒を飲みはじめたので、須佐之男命はその隙に大蛇に忍び寄り、剣で切りかかって大蛇を次々に倒していきました。

天叢雲剣の発祥地・尾留大明神旧社地
(Photo by ISSA)

最後に尻尾を切った時、天叢雲剣(注2) が出てきました。大蛇は退治され、出雲国にまた平和が戻り、須佐之男命は天叢雲剣を天照大御神に献上して、末長く櫛名田比売とこの地で暮らしました。

雲南市・八俣大蛇伝説由来の地
(Photo by ISSA)

(注2) 天叢雲とは、天空に雲が群がっている様子を言い表しており、大蛇の上にいつも雲がかかっていた様子から、そう名付けられたとされる

3 国譲り
その後、須佐之男命の子孫で、因幡の白兎でも有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)が葦原中国(あしはらなかつくに)(注3) の国造りを始めたのですが、高天原の神々は、葦原中国をうしはける(領有する)者は、須佐之男命の子孫ではなく、天照大御神の子孫であるべきだと考えていました。
 
(注3) 天上の高天原(たかあまはら)と、地下の黄泉の国(よみのくに)との中間にある、現実の地上の世界のこと

左:神在月に八百万の神々を迎える稲佐の浜
(注:白兎海岸ではありません)
右:大国主命と因幡の白兎        
(Photo by ISSA)

天照大御神が、使いを通して大国主命に「この国を譲るか」と問いただしたところ、大国主命は自分の住まいとなる宮殿(注4) を造ることを条件に国を譲ることを承諾しました。

上:二礼四拍手一礼を習わしとする出雲大社 
下:左上位の出雲大社では、しめ縄の結びが逆
右:古代出雲歴史博物館・平安期の巨大神殿 
(Photo by ISSA)

(注4) この宮殿こそが出雲大社であり、平安時代の書物には「日本一、大きな建物」と記されている

4 天孫降臨
その後、天照大御神は、自分の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、葦原中国を高天原のように素晴らしい国にするため天降る(あもる)ように命じ、瓊瓊杵尊は授けられた天叢雲剣を含む三種の神器とともに、日向国の高千穂に降臨したのです。

霧島の主峰・高千穂峰と天逆鉾
(Photo by ISSA)

5 神武東征と初代天皇への即位
瓊瓊杵尊のひ孫にあたる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は「(曾祖父が)日向国に降臨して久しいが、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か」と思案していたところ、塩土老翁(しおつちのおじ)から「東に美地(うましつち)有り、青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり」と聞き、兄たちと東征の旅に出ます。

上:神武東征上陸地・熊野荒坂津神社 
下:神武東征上陸地・天磐盾と神倉神社
この後、八咫烏が大和・橿原へと道案内をした
(Photo by ISSA)

この神武東征に天叢雲剣は登場しませんが、紀元前660年(皇紀元年)2月11日(紀元節、現在の建国記念日)に、橿原宮で初代・神武天皇として即位するときに、天叢雲剣を含む三種の神器は正殿に奉安されました(以降、歴代天皇に受け継がれた)。

上:橿原神宮(神武天皇を祀る神社)
左下:神武天皇社(神武天皇即位の地) 
右下:神武天皇畝傍(神武天皇のお墓) 
(Photo by ISSA)

6 形代が作られた
時は下って、第10代・崇神天皇は天叢雲剣と八咫鏡の神威を畏れて、自分の住まいから離れた所に祀ることにしました。形代(かたしろ)(注5) を皇位継承の証として宮中に置き、本体は大和国の笠縫邑(かさぬいのむら:奈良県桜井市付近)に遷したのです。
 
(注5) 神霊が憑依したレプリカのこと(八尺瓊勾玉の形代は作られず)
 
7 日本武尊の西征・東征と草薙剣
更に時は下って西暦90年頃、第12代天皇・景行天皇の皇子だった日本武尊(たまとたけるのみこと)は、大和朝廷に従わない西の部族・熊襲を征伐します。
 
その後、東にある蝦夷などの荒ぶる者共の平定を命じられた際に、日本武尊は伊勢に住まう第11代・垂仁天皇の皇女で、叔母に当たる倭姫命(やまとひめのみこと)(注6)  を訪れ、伊勢神宮に奉安されていた天叢雲剣(本体)と火打袋を授かります。
 
(注6) 神託により伊勢神宮・内宮(ないくう)を創建した人物
 
途中、焼津で賊の火攻めに遭いますが、この倭姫命から授かった天叢雲剣で草を薙払い、火打により形勢を逆転させて賊を討伐しました(これより、天叢雲剣は「草薙剣」とも呼ばれるようになる)。
 
その後、上総国に向けて浦賀水道を船で渡るとき嵐に遭い、同行していたお妃の弟橘媛命(おとたちばなのひめ)が海に身を捧げたことによって、船は「水の上を走る」ように水道を渡ることが出来ました(以来、この地は走水(はしりみず)と呼ばれるようになった)。

弟橘媛命をお祀りする走水神社
(Photo by ISSA)

それから更に東へ向かい、蝦夷や山河の荒ぶる者共をすべて平定した日本武尊は、帰路、尾張国で宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妃としました。
 
その後、日本武尊は、伊吹山に住まう荒ぶる神の征伐に向かいます。素手で退治すると言って、草薙剣を宮簀媛命のもとに置いたまま(留守中も、剣の霊力で愛する妃を守りたかったのでしょう)。
 
伊吹山に登る途中、山神様の大白猪の怒りを買って雹に打たれ、やっとのことで山を抜け出したときには、すっかり衰弱しきっていました。
 
そして、113年、日本武尊は伊勢国・能褒野(のぼの)で、置いてきてた宮簀媛命と草薙剣への想いを詠み(注7) 息を引き取った。
  
(注7)「嬢子(おとめご)の 床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」(おとめ(宮簀媛命)の床の辺に、私が置き忘れて来た太刀(草薙剣) ああ、その太刀よ … )
 
宮簀媛命は、日本武尊の死後も草薙剣を大切に守り続け、やがて建立された熱田神宮にお祀りすることになった(注8) のです。

天叢雲剣(本体)をお祀りする熱田神宮
(Photo by ISSA)

(注8) 668年に道行(どうぎょう)という名の新羅の賊が天叢雲剣/草薙剣を境外に持ち出そうとした事件があり、一時期、宮中にて御護りされたが、688年には再び熱田神宮に遷された
 
8 源平合戦

日本武尊から千年ほど時代は下った平安末期、天皇家に近かった平家は、京都から西日本へと逃がれて勢力を立て直そうと考え、幼少の第81代・安徳天皇を連れ出して、三種の神器を持ち去りました。
 
源義経は、平家が持ち出した三種の神器を確保し、安徳天皇を生きたまま保護しようとしたのですが、1185年、平家が壇ノ浦の戦いで破れたとき、敗北を悟った平家の二位尼が安徳天皇を抱き、天叢雲剣/草薙剣(形代)と八尺瓊勾玉(本体)を身に付け入水します。

安徳天皇をお祀りする赤間神宮
(Photo by ISSA) 

八咫鏡(形代)は御座船の中で見つかり、八尺瓊勾玉(本体)は海面に浮き上がったところを回収されたのですが、天叢雲剣/草薙剣(形代)は、いくら探しても見つかりませんでした。(注9) 

(注9) その後、伊勢神宮から献上された聖剣が天叢雲剣/草薙剣の新たな形代となり、この形代が現在皇居の「剣璽の間」に置かれている(本体は、引き続き、熱田神宮に奉安)

まとめ
天叢雲剣/草薙剣(本体)の足跡をたどると、概ね次のようになります。
① 八俣大蛇の尾尻から剣が見つかる
② 須佐之男命が天照大御神に献上
③ 天照大御神が瓊瓊杵尊に授ける
④ 日向国・高千穂に降臨
⑤ 神武天皇が即位し橿原宮に奉安
⑥ 崇神天皇の時代に形代が作られる
⑦ 大和国の笠縫邑に奉安
⑧ 伊勢神宮建立時、内宮に奉安
⑨ 日本武尊が東征に携行
⑩ 日本武尊没後、宮簀媛命が安置
⑪ 建立された熱田神宮に奉安 

おわりに ~ 核心的に重要なこと
諸外国の王朝では、レガリアは権力の象徴であり、王族が装着し見せびらかすことで、その権力を誇示しようとします。
 
他方、日本では真逆で、レガリアたる三種の神器は誰にも見せようとはしません(実際、誰も見たことがない)。
 
何故なら、日本の天皇が大事にしてきたのは「権力」ではなく「皇徳」だからです(もし、見た目は煌びやかで勇ましくても、中身が空っぽの王様だったら、いったい誰が尊敬したいと思うのでしょうね)。

「剣璽等承継の儀」で神器を受け取る天皇陛下
(Getty Images)

古来、日本の民は、三種の神器を通じて天皇に高徳さを感じ、そこに芽生えた誇りが、心の中に強い公徳心を育んできたのです。
 
日本では「形代」というものが必要とされた理由も、ここにあります(単に権力を誇示したいだけなら、映えるように作り直せばいいだけのこと)。
 
更に、国譲り神話にみられるように、神々と皇族は、まつろわぬ者たちを力で服従させる前に言向和平(ことむけやはす)、つまり、徳の高い者が発する言葉で説得し従わせる努力を行ってきました。

この過程で、行く先々の土着の神々を排斥するのではなく、逆にどんどん受け容れてきたことが、八百万の神々という世界でも類稀なる多様で寛容な宗教観を生み出し、部族間の調和をもたらしたと考えられます。
 
単なる武器、或いは権力者の装飾品としてではなく、国を平定し民の真心を育む皇徳の証として扱われてきた天叢雲剣/草薙剣。

同じ「剣」でも、煌びやかで血塗られた諸外国の王侯貴族の宝剣などとは、まるで格が違うということです。

近江国一之宮「建部大社」

そして、天叢雲剣/草薙剣を取り巻く「ドラクエ」ばりの数々の愛と勇気の物語。当時の日本人が、如何に想像力に溢れ、情緒豊かであったか。
 
私は、日本神話から始まるこの国の創世記と、古き良き日本人の真っすぐで美しい心が大好きです。
 
こういう心持を、人は「愛国心」と呼ぶのかもしれませんね。
 
学校の歴史教育では、是非、こういう話をして欲しかったなあと、今更ながらにそう思います(子供さんがいらっしゃるご家庭では、是非、このようなお話をなさって下さい)。
 
次回は、直線的に並ぶ遺跡「レイライン」の神秘についてお話します。
 
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