川越八幡宮
川越八幡宮
前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります。
社頭右脇に新富町2丁目の鏡獅子の山車を保管する山車庫が建っています。
川越八幡宮裏参道全景。
左に社標、石畳の参道の少し先に石の明神鳥居を構えています。
最初に境内に掲げられた由緒を挙げておきます。
川越八幡宮由緒
「・御祭神 譽田別命(応神天皇)
・鎮座地 川越市南通町19番地1(旧脇田町)
・例祭日 5月4日(春季例祭)、10月14日(秋季例祭)
由緒
・第68代 後一条天皇の御代の長元3年(1030)、甲斐守 源頼信により創祀。
・長元元年(1028)、下総国(千葉)城主 前上総介平忠常が朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従い、武蔵国に攻め入りました(長元の乱)。
・これを憂慮した朝廷は、長元3年(1030)甲斐守源頼信に平忠常追討の倫旨を下した。
命を受けた頼信は、この地で必勝祈願をし、三日三夜にわたる戦の末に乱を平定、宿願を果たした頼信は現在の大分県宇佐八幡宮(八幡宮本社)より勧請し八幡宮を創祀した事がおこり。
・頼信は同時期に東松山市箭弓稲荷神社の社殿も造営する。
・長禄元年(1457)、川越城が築城され、太田道真、道灌は当神社の分霊を城内の守護神として奉斎、歴代城主から崇敬された。
・天正18年(1590)以来、城主 酒井氏一族の崇敬は篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。
ました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。
・文化9年(1812)7月1日、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(向鳩文字)の額と掛物一幅を奉納、これにより寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
・明治維新の際、別当万蔵寺を廃寺し、川越城主の領する地の人々は当宮を氏神として崇敬した。
御神徳
・八幡の神は数多く、全国八万社のうち分霊社は一万五千社を超え、九州宇佐八幡宮である。
・御祭神は第十五代天皇の応神天皇で、母親の神功皇后と共に大陸文化を日本に取り入れ、日本文化の興隆をはかられた。
・八幡神は後の源氏が氏神として、崇敬武運長久の神、勝負の神として広く崇敬されるようになる。
・応神天皇は神功皇后に抱かれる嬰児の姿で表現され、母子神の信仰、即ち母が子を抱きかかえ、これを大切にし、自分の子(応神天皇)を自分の替りとしてこの世に下された姿である。
・八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛を以てこれを育み育てる大愛を本願とするもので、母の愛こそは純の純たるもので八幡信仰の基である。
年間祭事
・1月1日 歳旦祭・5月4日 春季例祭・6月30日 夏季大祓・10月14日 秋季例祭・12月最終日曜 大祓」
小江戸川越の初日の予定はここ川越八幡宮で締めくくる。
先に訪れた仙波東照宮はこの川越八幡宮の境外末社だという。
由緒にあるように創建が長元3年(1030)と長い歴史を誇り、必勝祈願や合格祈願、縁結びに目の病にも御利益があるとされ、そうした御利益を授かりに参拝客で賑わうそうだ。
参拝当日の境内は修繕工事中で、工事車両、作業に追われる職人さんの姿が多く、2030年の創建1000年大祭に向けて境内・社殿が一新されているようで、どこを見渡しても古めかしさは感じられなかった。
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