アウシュヴィッツ・ビルケナウの「プルシアンブルー」
ロイヒター・レポートの最も重要な示唆は、殺人ガス室で本当にシアンガスが使われたのかどうかを検査するために、ガス室だったとされる箇所からサンプルを採取し、そのサンプルからシアン成分を定量的に検査したことです。その結果、否定派もシアンガスが使われたと認めている害虫駆除室と、殺人ガス室だったとされる箇所のシアン成分濃度に大幅な違いがあることがわかったのでした。桁数で3〜4桁も害虫駆除室の方がシアン成分濃度が高く、殺人ガス室跡ではそれに比べればほとんど検出されなかったと見做さざるを得ない数値しか得られなかったのです。これにより、ロイヒターはもちろん、修正主義者たちは「殺人ガス室が存在しなかったことが科学的に実証された」と喜んだのです。
ところが、ロイヒターの調査結果がそのような結果になったのは、大きな理由があったのです。それが害虫駆除室には存在し、殺人ガス室だったとされる箇所には存在しなかった、「青いシミ」でした。トップの写真は、修正主義者のゲルマー・ルドルフが写っていますが、アウシュヴィッツ第一収容所にある害虫駆除室(の外)で撮影したものです。この壁面の青いシミは「プルシアンブルー(鉄青:日本語では一般に「紺青」と呼ぶ)」と呼ばれ、シアン成分と鉄分が結合した化合物であることがわかっています。
しかし、シアン成分は必ず鉄分と結合した状態でしか残らないのか? と言えば、実はそうではありません。鉄分と結合せずに残留する場合もあるのです。このこと自体は、ロイヒターの少し後に登場した修正主義者であり、化学者でもあるゲルマー・ルドルフも認めているようですが、このプルシアンブルーの生成条件は実はそう簡単に示せるものではなかったのです。実は、プルシアンブルーは基本的には人工的に生成されるものであり、チクロンBのようにそのシアンガスの存在下で、ある意味自然にプルシアンブルーが生成されるというのは実際のところ非常に珍しいものだったのです。なぜならば、シアンガスが自然に発生することなどまずあり得ないからです。
アウシュヴィッツやマイダネク収容所にあるチクロンBが使用された害虫駆除室で当たり前のように存在するプルシアンブルーではあるのですが、プルシアンブルーと、プルシアンブルー化せずに残留したシアン成分の経年的な濃度変化には大きな違いがあるのです。これを模式化した図が以下です。
これはあくまでも、簡易的に作っただけのイメージ的な経年変化グラフですが、プルシアンブルーは長期にわたってほとんどが残留するのに対し、プルシアンブルー化しなかったシアン成分は年月が経てば経つほどどんどん減ってしまうのです。その理由は、シアン化水素は非常に揮発性が高いことや、壁面などに残ったシアン化水素(あるいはプルシアンブルーでないシアン塩(シアン化ナトリウムやシアン化カリウムなど))は水溶性が高いので、たとえば廃墟化しているビルケナウのガス室遺跡では長年の雨水により簡単に流されてしまうのです。
そこで、ポーランドのクラクフ法医学研究所は、ロイヒター・レポートに明確に対抗する意味で、このプルシアンブルーを除外して化学分析を行ったのです。当然、分析値が極めて低くなることはわかっていたので、ロイヒターらの分析感度の300倍の感度で分析値を得ることができる特殊な「微量拡散分析法」という手法を用いたのです。ロイヒターやルドルフの得た値の単位は「mg/kg」ですが、クラクフの方は「μg/kg」となっています。
その結果、プルシアンブルーが分析値に含まれない場合のシアン濃度は、害虫駆除室とガス室遺跡とで、ロイヒターらの分析値のような極端な差はない結果となったのです。従って、クラクフ報告では、害虫駆除室と同様にガス室跡とされる場所でも確かにシアンガスが使われたと判定される結果となったわけです。
しかし、修正主義者の科学者代表であるゲルマー・ルドルフは引き下がりません。ルドルフの主張は極めて単純です。シアンガスが使われたならば、必ずプルシアンブルーが生成される、と主張するのです。結論から言えば、そんな証明をルドルフは全く行っていません。実際すでに述べたように、シアンガスの存在下でプルシアンブルーが生成される条件は、はっきりわからないのです。極めて特殊な現象だからです。
これは個人的な推測になりますが、特殊である理由は、チクロンBを含め、シアンガスで害虫駆除をする頻度は、一般的に、一箇所あたりでナチスの収容所にあった害虫駆除ガス室ほどではないからだと考えられます。収容所では囚人のチフス感染が問題となって労働力に影響をもたらしてしまうので、頻繁に囚人服などの害虫駆除を行う必要があったのです。従って、あまりに使用頻度が高い害虫駆除室だったので、プルシアンブルーが発生しやすかったのではないかと考えられます。
ところがルドルフは、これを書いている現時点ではほとんど私は知りませんが、一度しかシアンガスが使われていないにもかかわらず、プルシアンブルーが発生していた教会を見つけたらしいのです。とするのであれば、シアンガスの使用頻度がプルシアンブルーの生成を必ず決定づけるとも言えなくなります。ただし、たったの一例で「シアンガスがあれば必ずプルシアンブルーが生成される」ともまた言えません。
となると、「シアンガスがあれば必ずプルシアンブルーが生成されるはず」説の正誤は、化学理論に頼らざるを得なくなります。ところが……、これがなかなか曲者というか、少なくとも私のような素人にはそう簡単には理解できるものではないのです。今回はその化学的・専門的な内容のページの翻訳記事になります。
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ロイヒター、ルドルフ、そして鉄青
リチャード・J・グリーンによるエッセイ
バージョン6.0
概要:ロイヒターとルドルフは、アウシュビッツ・ビルケナウのガス室に存在する化学残留物が殺人ガス処理と相容れないことを示すと称する偽科学的報告書を発表している。マルキエヴィッチ、グーバラ、ラベツは、クレマ I-Vとバンカー11にシアンが存在し、他の施設で測定されたバックグラウンドレベルを超えるレベルであることを明確に示している。害虫駆除室の多くには、殺人ガス室には明らかに見られない青色染色が見られる。ロイヒターとルドルフは、これらの設備から、殺人ガス室よりも高いレベルのシアンを検出した。害虫駆除室内の青色染料は、プルシアンブルーなどの鉄青色である可能性が高い。マルキエヴィッチ、グーバラ、ラベツはこの化合物の存在を差別化したが、ロイヒターとルドルフは差別化しなかった。ロイヒターとルドルフの発見は、すでに肉眼で見て明らかなこと以上の情報を含んでいないのだ。プルシアンブルーの生成を理解することは、マルキエヴィッチ、グーバラ、ラベツの発見の重要性を理解するために不可欠である。プルシアンブルーの工業的な製造方法について簡単に説明する。ルドルフが提唱したプルシアンブルーの生成機構を検証する。ガス室が使用された条件下では、プルシアンブルーが生成されることは考えにくい。わずかな条件の違いで、その確率が変わることがあり、それが、マイダネクの害虫駆除室とガス室にプルシアンブルーが存在することの説明とすることができる。アリッチらは、プルシアンブルーの生成はシアンの濃度とpHに極めて敏感であることを発見した。建材を$${HCN}$$に晒してプルシアンブルーを作る試みは、何度か失敗している。ガス室の条件下でプルシアンブルーが生成されたことを証明する責任は、否定派にある。
最近、ホロコースト否定派が発表した多くの「法医学的」報告は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ(AB)での殺人ガス処刑が行われなかったことを示すと称している。ABのガス室での殺人の薬剤はチクロンBであった。チクロンBは、シアン化水素を含浸させた固形支持体である。チクロンBによる大量殺人の化学的性質についての議論、これらの疑似科学的報告のいくつかの分析、クラクフの法医学研究所(IFRC)による実際の法医学的分析のドキュメントは、論文「アウシュヴィッツの化学」(日本語訳)に掲載されている。ゲルマー・ルドルフ1などは、ABの殺人ガス室では殺人ガス処刑は起こりえなかったという主張をしている。彼の主張は、チクロンBが害虫駆除に使われた施設では青い染色が見られるが、チクロンBが殺戮目的に使われた施設では、明らかな染色が見られないという事実に依拠している。彼は、染色された壁の方が染色されていない壁よりも多くのシアン化合物を測定したと主張しており、殺人ガス室に存在するシアン化合物のレベルは殺人ガス処理と一致しないと結論している。ロイヒター2も同様の主張で同様の測定を行っている。
ガス処理施設におけるシアン化合物の存在とプルシアンブルーの見かけ上の欠落について
クラクフの法医学研究所のマルキエヴィッチ、グーバラ、ラベツは、$${HCN}$$が殺人ガス室、すなわち、クレマI、クレマII、クレマIII、クレマIV、クレマV、ブンカ11の地下室に、AB複合施設の他の施設を上回るレベルで存在していたことを立証している。3彼らはバンカー11とクレマI-Vからいくつかのサンプルを採取した。彼らは、これらすべての殺人ガス現場から、バックグラウンドレベルよりも著しく高いシアン化合物を発見したのである。彼らは、検量線がサンプルを実行する過程で既知の標準物質とチェックされるような、慎重に校正された方法を使用したのである。分析は、客観性を確保するために、試料採取チームとは別のチームが行った。ホロコースト否定派とは異なり、彼らは上記の染色の原因とされるプルシアンブルーなどの鉄青化合物を識別するために、慎重に調整された方法を使用したのである。
この小論の目的は、この青い染みが何であり、どのようにしてできたのか、そして、ABの殺人ガス室にそれがないことが、殺人ガス処刑がそこで行なわれなかったことを意味すると合理的に解釈できるのかについて詳しく見ていくことである。ルドルフとロイヒターが鉄青化合物を識別していなかったために、殺人ガス室よりも害虫駆除室で多くのシアン化合物を測定したという事実は、機能的には、青色染色が害虫駆除室に存在し、殺人ガス室にはないという観察結果と何ら変わりはない。つまり、測定しなくてもわかることを、測定によって何も見つけていないのである。マルキエヴィッチ、グーバラ、ラベツの3人は、周到に考えた実験によって、真の情報を提供したのである。
ABの殺人室ではなく、害虫駆除室に明らかな青色染色があることは、ここでは争点になっていない。しかし、マイダネク死の収容所では、殺人ガス室には確かに青い染みがあることを述べておく。4,5さらに、この染色は、既知のすべての害虫駆除室に存在するわけではない。なぜ、シアン化水素($${HCN}$$)の使用によって、このような染色が必要であると主張されるのか、すぐに考えさせられる。
鉄が第三の酸化状態(レンガに含まれるような状態)でプルシアンブルーが生成されるメカニズムが思いつかないことから、ベイラー6は、鉄青が存在するのは$${HCN}$$蒸気にさらされたからではなく、塗料によるものではないかと推測した(鉄青は塗料の顔料としてよく使われるものである)。ベイラーの推測は、ABで殺人的ガス処刑は行なわれなかったというルドルフの主張よりは確かに合理的ではあるが、それでも、懐疑的に見なければならない。もし、これらの設備に塗料が使われていたなら、その塗料を購入して塗った証拠を見つけることができるはずである。ペイントの仮説を信じるには、それを裏付ける証拠がもっと必要である。
いくつかのポイントを明確にしておく必要がある。
害虫駆除室には青く染まるものがあるが、殺人ガス室にはそうでないものがある。ルドルフとロイヒターは、この青く染色された物質をサンプルに含めることを選んだので、彼らの測定は、目に見えるものを数字に置き換えて、一般の人々を欺くための練習として以外は、目視検査以上の情報を提供しないのである。言い換えれば、彼らは、プルシアンブルーを区別しないことによって、害虫駆除室を対照として使うことに偏りを持ち込んでしまったのである。そのため、なぜプルシアンブルーの濃度に差があるのか、その解明には至っていない。
青く染まるのは、プルシアンブルーに代表される鉄の青と呼ばれる化合物の特徴である。ベイラー4は、この青色は塗料に由来するのではないかと言っているが、その可能性は低いと思われる。マイダネクで染色を観察した人は、建材の奥深くまで染み込んだ斑点のようなものだと表現している。
プルシアンブルーを生成するためには、$${Fe(II)}$$、$${Fe(0)}$$の供給源か、$${Fe(III)}$$を$${Fe(II)}$$に還元できる薬剤が必要である。還元剤が存在する場合、還元を起こすための条件が整っていなければならない。この点については、以下でさらに詳しく説明する。
クラクフの法医学研究所では、コントロールにバイアスがかからないよう、プルシアンブルー化合物を差別化した。彼らは、アウシュビッツ・ビルケナウで$${HCN}$$と接触したとされるすべての建物から、アウシュビッツ・ビルケナウの他の建物のバックグラウンドよりかなり高いシアンの痕跡があることを明確に発見した。
プルシアンブルーは、他のシアンに比べて風化しにくいという特徴がある。ルドルフ自身、この事実を認めている:4
この議論は、シアン化水素がシアン化カリウムのように塩を形成する弱酸であるという事実を無視しており、化学吸着による結合や他のシアン化物化合物の形成に対処していないが、この指摘にも全くメリットがないわけではない。それよりも、シアン塩がプルシアンブルーと違って水溶性が高いことの方が大きいかもしれない。マルキエヴィッチらは、$${HCN}$$に暴露されてから何年も経ってからシアンを検出できるようになるとは楽観視していなかったと報告している。しかし、合法的にサンプルを入手できたからこそ、比較的風雨にさらされない場所でシアンを検出しやすいようにサンプル採取を計画することができたのだ。殺人ガス室から、鉄と結合していないシアンの痕跡を、他の建物で観察されたレベルよりも高いレベルで測定したという事実は、そのような痕跡は測定不可能であるという主張を否定するものである。
ロイヒターやルドルフが自分たちの発見の意義を実証するためには、殺人ガス室が運営された条件下でのプルシアンブルー生成の必要性を証明する必要がある。駆虫室にはプルシアンブルーがあり、殺人ガス室にはないことを示しても、ガス室の条件がプルシアンブルーを生み出すようなものであったことを示すことができなければ、何の証明にもならない。そこで、プルシアンブルー、その生成とガス室での状態に注目することにする。
鉄青とその産業的準備
俗に「鉄青」と呼ばれる化合物がいくつかある。例えば不溶性プルシアンブルーは、$${Fe_4[Fe(CN)_6]^{-3}}$$である。これは、$${[Fe(III)(CN)_6]^{-3}}$$に$${Fe(II)}$$を添加することで生成することができる。7 ここで注意すべきは、可溶性と不溶性の区別は、溶解度の違いではなく、化合物がコロイド懸濁液を形成しやすいかどうかという問題であるということである。7 この点は、プルシアンブルーの劣化の可能性について議論する際に重要である。プルシアンブルーの分解が殺人ガス室からプルシアンブルーが発見されなかった原因であると主張するつもりはないが、この仮説を可能性として頭から否定すべきではないだろう。
ホルツマンが記述した可溶性鉄青の調製には、一般に3つの方法がある。8 不溶性青色は、可溶性青色と様々な金属陽イオンとの反応によって調製することができる(ホルツマンの表IIを参照)。この3つの方法は
第二鉄($${Fe(III)}$$)塩とフェロシアン化物$${Fe(II)}$$を混合すること。
第一鉄($${Fe(II)}$$)塩とフェリシアン化物($${Fe(III)}$$を混合すること、および
第一鉄塩とフェロシアン化物を混合し、次いで酸化すること。
鉄を酸化状態の混在した状態で、あるいはおそらくは混合状態の共鳴構造で生成することが必要であることに注意しなければならない。ベイラーは、まさにその理由からプルシアンブルーの生成はあり得ないと論じている。
ルドルフの提案したメカニズム
ルドルフ1、4は、$${HCN}$$自身が鉄(III)を鉄(II)に変換する還元剤である可能性に言及しなかったことに対して、彼自身の人格で、また「E.ガウス」9という別名10で、ベイラーを激しく批判した。さらに奇妙な鉄青の合成も報告されている。11 ルドルフは、その主張の裏付けとして、アリッチ、ハワース、ジョンソンの論文を引用している12。どうやら、この論文をよく読んでいなかったようだ。著者らは、$${CN^-}$$の水溶液およびエタノール溶液による$${[Fe(CN)_6]^{3-}}$$ の還元を調べた。彼らは、$${CN^-}$$が確かに還元剤であることを示唆しているが、$${CNO^-}$$を観測できないことから、この主張には結論が出ないに違いない。デウェットとロールは $${Fe(III)Fe(III)(CN)_6}$$ が水によってプルシアンブルー化合物に還元されることを主張した。13アリッチらは$${CNO^-}$$を観測できなかったにもかかわらず、水を加えると反応が阻害されるという観察から、$${HCN}$$が還元剤であるという仮説がより妥当なものとなったのだろう。
しかし、その還元剤が何であるかは、学術的な問題かもしれない。問題は、このようなプルシアンブルー生成のメカニズムが、ガス室内で確かに機能していたかどうかである。
アリッチらは、$${Fe(III)}$$に比べて$${CN^-}$$イオンが過剰であるか、非常に塩基性の高い条件でなければ、水中でプルシアンブルーが形成されないことを示している。14
さて、ここからが大事なところである。
アウシュビッツ・ビルケナウの殺人ガス室の状況
つまり、プルシアンブルーは非常に高濃度のCN-がないと形成されない。ガス室内の濃度は、周囲の水が平衡に達するまでの時間があれば、理論的には0.2ないし0.3Mに近づくかもしれないが、より可能性が高いのは0.1M以下のオーダーであることが付録I(日本語訳は後述)に示されている通りだ。
このような平衡濃度が、実際のガス処理の時間帯に到達できたかどうかは疑問である。この濃度が平衡値である。水による$${HCN}$$の吸収は間違いなく動力学的に制限される。つまり、吸収プロセスがどの程度の速さで起こるかによって濃度が制限されるのである。平衡濃度は、水が$${HCN}$$に十分長くさらされ、溶液から気相へ出て行く$${HCN}$$の速度と気相から水に吸収される$${HCN}$$の速度が等しくなることを仮定している。
最も重要なことは、ガス室はガス処刑の後、血液と排泄物を浄化するために水で洗浄されたことを想起することである15。周囲の水がかなり少なかったことを考えると、100倍の希釈液を提供することは些細なことだったのであろう。害虫駆除室にはプルシアンブルーがあったのに、殺人室にはなかったのは、実はこの効果によるものと思われる。この仮説を裏付けるには、さらなる研究が必要だろう。
プルシアンブルーの生成は、濃度およびpHに極めて敏感である。非常に小さな効果で、プルシアンブルーが形成されるかどうかのバランスが崩れることがあるのだ。アリッチらは、この反応には強いpH依存性があることを見いだした。ガス室内に人間がいたことも、バランスを崩す一因になったかもしれない。$${CO_2}$$は酸の無水物で、殺人室には大量にあったはずだ。酸無水物とは、溶媒和したときに溶液の酸性度を高める物質である。大気中の$${CO_2}$$濃度(現在360ppm、当時約330ppm)でも、純粋な雨水のpHを5.6にするのに十分である。人間は約4%の$${CO_2}$$を排出しているので、pHはかなり低くなる可能性がある。例えば、2%の$${CO_2}$$では、pHは4.8以下になる、付録II(日本語訳は後述))では、二酸化炭素の濃度とpHの関係を導き出した。pHが低いと反応が阻害される。さらに、低いpHは$${HCN}$$を溶液から追い出し、$${CN^-}$$を最初からより希薄なものにする。なお、これらの要因は、水溶性の石灰水($${Ca(OH)_2}$$)を使用することで多少緩和され、pHが上昇する可能性があることを付記しておく。$${Ca(OH)_2}$$の純水溶液はpH12まで達するが(Merck Index参照)、石灰水によるコーティングではそのような条件はほとんど得られない。
ここでもう一点、注意しなければならないことがある。ここで概説した条件は、シアノ錯体イオンと$${Fe(CN)_6^{3-}}$$の存在下でプルシアンブルーを生成するためのものである。ガス室では、レンガに含まれる$${Fe(III)}$$と$${HCN}$$自体からのシアン化物イオンが存在したはずだが、アリッチらは「$${Fe(III)}$$と$${CN^-}$$イオンだけを含む溶液のスペクトルは、$${Fe(III)}$$の酸加水分解だけを示した」と記している。16 プルシアンブルーは形成されなかった。
$${HCN}$$と建材の存在によってプルシアンブルーの形成が必然的に起こるわけではないことを示す実験的な証拠は強い。マルキエヴィッチら17は、$${HCN}$$と建材を用いた実験では、このような色素を生成することができなかった。さらにルドルフは、レンガを$${HCN}$$にさらす実験を行ったが、分析法の感度の範囲内ではシアン化合物の検出は不可能であった。18これらのプルシアンブルー生成の失敗は、検出可能なレベルでのプルシアンブルーの生成は$${HCN}$$への曝露の必要な結果ではないことを示すのに十分である。
結論
プルシアンブルーが害虫駆除室に存在し、ガス室に存在しない理由を説明したと主張するのは時期尚早であるが、ルドルフの提案したメカニズムが殺人ガス室で作動したとは考えにくいことを示したことは確かである。さらに重要なことは、プルシアンブルーの形成が、その場にある条件の非常に微妙な影響を受けることを示したことである。わずかなコンディションの変化で、バランスを取ることができたのであろう。しかし、ここでの立証責任は、否定派にある。彼らは、ガス室でのガス処刑が起こりえなかったことを証明すると主張している。そのような主張をするためには、彼らが提案したプルシアンブルー生成のメカニズムが、ガス室が運用された正確な条件下で作動しなければならないことを証明する必要がある。彼らの仕事は大変なものだ。プルシアンブルーがないことを根拠に主張するのは、せいぜい空論に過ぎない。殺人ガス室にはシアン化合物が確かに存在していたこと、そこでガス処刑が行なわれたことを目撃者が証言していること、犯人がその犯罪を認めていること、100万から150万人がアウシュヴィッツ・ビルケナウに追放され、二度と戻ってこなかったという証拠を加えて、ルドルフの著作は証拠の故意の歪曲であると言えるのである。
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付録I
水による吸収とヘンリーの法則
デュポン社の「シアン化水素:特性、用途、保存と取り扱い 1」の32ページには、様々な濃度と温度における$${HCN}$$水溶液上の$${HCN}$$の分圧をプロットしたものが掲載されている。これらの値は平衡値である。つまり、この濃度では、気相の$${HCN}$$が溶液に吸収される速度と、溶液から気相に流出する速度がちょうど釣り合うことになる。
このプロットは平衡値を示しているので、暗黙のうちに分配係数の値を含んでいる。つまり、気相の$${HCN}$$にさらされた水中の溶液中の$${HCN}$$の平衡濃度を、与えられた濃度と温度として求めることができるのである。本付録はその値を抜粋したものである。デュポン社のプロットでは、液相濃度は重量パーセントで、気相濃度は水銀柱ミリメートル(Torrとしても知られている)で表されている。この付録では、モル数(M)と立方メートルあたりのグラム数(g/m3)の関係を導き出している。
これらの値は平衡値であり、$${HCN}$$にさらされた水中に存在しうる濃度の上限値であることを意味する。このような平衡がどのくらいの速度で成立するかは、動力学の問題であり、もっと難しい問題である。
ある温度での値をプロットから読み取れば、水中の$${HCN}$$重量パーセントを気相濃度(Torr)の関数としてプロットすることができる。この関係は、注目する領域では線形であるため、最小二乗直線回帰でポイントをフィッティングすることで中間値を求めることができる。0Torrでは、水中濃度は0%になるはずである。そのため、フィットの自由パラメータは傾きだけである。この直線関係はヘンリーの法則と呼ばれ、その傾きはヘンリーの法則の定数と同定することができる。
図I.1
温度依存性
0℃、10℃、20℃、30℃、40℃、50℃についても同様のプロットを作成した。傾きの値は、
表 I.1:気液分離の温度依存性の傾き
温度 傾き
° C パーセント/Torr
0 0.105
10 0.066
20 0.047
30 0.029
40 0.020
50 0.013
単位換算
これで、単位換算を除けば、問題は基本的に解決した。デュポン社の液相濃度は重量%で表示されているが、その値をモル%(M)で表したい。まず、1モルの$${HCN}$$が何モルの水に含まれているかを計算する。$${HCN}$$のモル質量は27.03gであり、水($${M_{H_2O}}$$)の質量は次のように表すことができる。
$${(M_{H_2O}) = (100/C -1) × 27.03}$$
ここで、C は重量パーセントの $${HCN}$$ の濃度である。水の密度は1.0g/mLであり、ここでは温度とは無関係に扱うことにする。温度の関数としてのHCN密度は、同じデュポン社の文書の2ページに記載されている密度の線形外挿によって求めた。g/mLでフィットさせた場合は以下の通り。
$${pHCN=0.715-0.00133 × T}$$
ここで、Tは摂氏(°C)、$${pHCN}$$は$${HCN}$$の密度を表す。混合による体積変化の影響を無視すれば、1モルの$${HCN}$$を含む溶液の体積が計算できるようになった。デュポン社のハンドブック31ページの図11は、$${HCN}$$溶液の比重を$${HCN}$$重量パーセントの関数として表示したものである。この図を見ていただければ、混合量を無視することが正当であることが十分わかると思う。したがって、1モルの$${HCN}$$を含む溶液の体積はミリリットル(mL)である。
$${V= 27.03/pHCN + M_{H_2O}/1.0}$$
モル濃度に変換するには、
$${ [HCN] = 1000/V}$$
ガス室内の気相濃度は8~16g/㎥の範囲であった。そこで、1-20 g/m3 の配列を選び、その配列を Torr に変換して、上記の関係から、与えられた温度での平衡水濃度を計算した。g/m3からの変換は簡単である。
$${P=R × T × (C/27.03) × (760/101325)}$$
ここで、Pは$${HCN}$$の分圧(Torr)である。Rは普遍気体定数(8.31441 r㎥Pa/mol K(SI単位!))である。Tはケルビン(273.15に摂氏の温度を加えたもの)、Cは$${HCN}$$の濃度をg/㎥で表したもの、27.03は$${HCN}$$のモル質量をグラムで表したもの(SI単位ではなく、グラムで打ち消す)、1気圧は760Torr、101,325パスカル(Pa)である。
結果
これらの計算結果を図I.2に示す。ガス室の温度は20〜40℃であった可能性が高いが、たとえ10℃まで下がったとしても、また報告されている高い濃度が使われたとしても、$${HCN}$$の平衡濃度は0.1〜0.2Mのオーダーである。つまり、実現しうる最大濃度である。より可能性が高いのは、濃度が動力学によって制限され、平衡に達しなかったことである。
図I.2
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付録 II
二酸化炭素のpHへの影響
二酸化炭素($${CO_2}$$)は酸無水物であり、水に溶かすと溶液のpHを下げるという性質がある。実際、純粋な雨水のpHは5.6である。これは、大気中の$${CO_2}$$濃度が360ppmであるためである。第二次世界大戦中の大気中$${CO_2}$$濃度は330ppmに近かったが、ここで取り上げる目的には重要な違いではない。このプロセスは、3つのステップで構成されていると考えることができ、そのすべてが化学的平衡に関係している。最初のステップは、$${CO_2}$$の水への溶解であり、その平衡定数は$${CO_2}$$のヘンリー則定数Khcである。
$${CO_2}$$+$${H_2O}$$ <=> $${H_2CO_3}$$
第二段階は、炭酸と水との酸塩基反応である。この平衡定数を Kc1 とする。
$${H_2CO_3}$$ + $${H_2O}$$<=> $${H_3O^+}$$ + $${HCO_3^-}$$
第三段階は重炭酸イオン($${HCO_3^-}$$)と水との反応であり、その平衡定数をここではKc2と表記する。
$${HCO_3^-}$$ + $${H_2O}$$<=> $${H_3O^+}$$ + $${CO_3^{2-}}$$
また、水の自己分解についても考慮する必要がある。
$${2H_2O}$$ <=>$${H_3O^+}$$ + $${OH^-}$$
水溶液では、水の濃度を定数として扱い、平衡の定数であるKwを導くことができる。これらの定数および関連するエンタルピーはサインフェルド に報告されている。1以下、関連する数量を表にしてみた。
表 II.1: 二酸化炭素の水による吸収の平衡定数と関連するエンタルピー
298Kでのエンタルピー
定数 値 (kcal/mol)
$${Khc}$$ $${3.4 × 10^{-2}}$$ -4.846
$${Kc1}$$ $${4.283 × 10^{-7}}$$ 1.825
$${Kc2}$$ $${4.687 × 10^{-11}}$$ 3.55
$${Kw}$$ $${1.008 × 10^{-14}}$$ 13.345
これらの定数のわずかな温度依存性は、与えられたエンタルピーによって説明することができる。溶液のpHは-log[$${H^+}$$]で定義され、[$${H^+}$$]はヒドロニウムイオンの濃度(モル/リットル)である。与えられた情報から、[$${H^+}$$]と$${CO_2}$$分圧$${P_{CO_2}}$$の関係を表す3次方程式を導くことができる。この式は、サインフェルドでも紹介されている:1
$${[H^+]^3 - (Kw+KhcKc1 P_{CO_2})[H^+]-2+KhcKc1Kc2P_{CO_2}=0}$$
この方程式を、ニュートン法に似た根源探索法を用いた簡単なコンピュータプログラムによって解いてみた。2その結果を図II.1に示す。
図II.1
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