『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(1)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(2)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(3)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(5)
今回もかなり長く、三万五千字近くあります。最初は全面反論する気はなかったのですが、ほとんど全面反論になってしまってます。いちいち細かいことを調べる癖もついており、そこでもまた長くなる要因を自ら作ってしまっています。アホだと思います、自分を(笑)
では今回もまた、ご笑覧あれ。
「第4章「証言」の問題」について
「物証はなくても「証言」があれば…という考え方」について
「物的証拠」をGoogleで調べてもらうと、
と教えていただきました。しかしここでは、「証言」と対比させられていますので、証言以外の証拠を指すようです。状況証拠はさすがに物的証拠とは言わないと思いますが、膨大に残されている当時の文書資料も物的証拠ですし、あるいはロイヒター・レポートを否定したクラクフ報告も物的証拠になり得ます。殺人ガス室跡とされる場所でシアン化水素が使われたことを示すシアン化物を有意に検出しているからです。以下にリスト化されているアウシュヴィッツの証拠リストの過半数は証言ではない物的証拠です。
従って、第4章は冒頭の項目タイトルから嘘です。
で、この章では証言を問題にしていくそうです。とりあえず、西岡の主張を見ていきましょう。最初の項目内に特に述べることはありませんので次に進みます。
「アブラハム・ボンバの「ガス室目撃証言」」について
アブラハム・ボンバはホロコーストの証言者では有名な人の一人です。つまり、否定派にとっては目障りな証言者の一人でもあります。ひとまず、トレブリンカ博物館サイトから翻訳紹介してみましょう。
さて、証言の内容についての西岡の批判を読む前に、本来であれば、対象とされている証言の全てに目を通しておくのがベストです。しかし、私は西岡が使っているクロード・ランズマンの『ショア』の本は持ってないし、映画の方もまだ見たこともありません。しかし、アブラハム・ボンバは結構有名なようなので、ショアのものではないものの例えば以下などで読むことはできます。
一旦はこれを翻訳して引用しようかと思ったのですが、ちょっと長すぎるので諦めました。できれば翻訳してでも読んでみてください。さて、では西岡の主張を読んでみましょう。
西岡は、そんな狭いガス室にそんな大勢の人間が入るわけがない、と主張しているのですが、それを検討する前に一つ興味深いことをお知らせします。すでに、このシリーズ1回目でお伝えしたように、西岡本は西岡氏自身が自分のブログにテキストで公開していると述べました。実はそこにはガス室の広さについてこう書いてあるのです。
お気づきですか? 先ず、私の方が紹介している本の方(Kindle版)では、全て「四メートル四方(四㍍四方)」となっているのに、ブログでは「4メートル平方」と書いたあと、そのあとは全て「4メートル四方」になっています。表記が微妙に違っています。
実はこれ、私が西岡に指摘して修正させたのです。旧Twitter上で何かの拍子にボンバの証言の話題になり(多分最初の相手は西岡ではなかったような気がします)、西岡のブログには当時、「4平方メートル」と書いてあったのです。で、それは間違っている、と西岡に指摘したら、その間違いを認め、修正しますと西岡は述べ自分で書き直したのです。つまり、西岡がブログで書いていた当該記述は最初だけ「4メートル平方」で合っていたのに、以降全部「4平方メートル」と間違えていたのです(つまり西岡は自著のテキストを自ブログで公開するにあたって全部手入力していたらしい。それはそれで恐ろしいことだ(笑))。
以前西岡が間違えていた証拠はWebアーカイブにあります。2018年のものです。
さて、この西岡の単純なミスは、日本の歴史学者で唯一、修正主義者だった故・加藤一郎も同じミスをしています。
こちらの場合、グラーフの原文の英語では「4 meter square」つまり4メートル四方とちゃんと書いてあるのです。
つまらない粗探しとは思わないでくださいね。この違いは全然違います。面積にして四倍も違うのです。確かに4㎡におよそ160人もの人間が入るわけありません。密度にして40人/㎡です。以前に明石花火大会歩道橋事故の報告書では最大で13〜15人/㎡だったと述べていますが、その概ね三倍もの密度になってしまい、いくら私が否定派の主張よりもさらに高密度を提示しているからといってそれはあり得ないと言うしかありません。
しかし、4m×4m=16平方メートルなら違います。10人/㎡であり、明石花火大会報告書に記された最大値を下回ります。ボンバは「四メートル四方くらい」と言っていますから、もし仮に4mではなく実際には5mだとすれば、25㎡あることになり、一気に6.4人/㎡となって、高い密集度とは言え、十分あり得る密度になります。
実際に、以下では、ボンバとは異なる面積を示しているものもあります。
従って、西岡の「「ガス室」にこんなに大勢の人間が入ったのでしょうか?」という疑問への回答は「入った」になり、疑問は解消されたので、ボンバの証言は疑わしいものではないことになります。
しかしここで私が述べたいのはそんな反論ではなく、西岡自身が間違えているのに、証言者の述べているそれら数字がたとえ誤っていたからと言って、西岡に証言者を嘘つき呼ばわりする資格はないということです。西岡自身が証明しているように、人は証言を間違えることがあるのです。
「「ホロコースト」の内容は二転三転している」について
そりゃ、間違っていたら修正するのは当たり前のことです。アウシュヴィッツの400万人の石碑が、150万人に修正されたように。西岡はこれを何度も何度も、今尚ずっと言い続けているようですが、「イイクニツクロウ(1192年)鎌倉幕府」が歴史教科書から消えてしまったように、より正しいとされる説が認められるのであれば、その説に書き換えられるのはあたりまでのことであり、書き換えない方がおかしいのです。
ところで、西岡は私からの指摘で自説を修正しているのですけれど、それはいいのでしょうか? 以下のページにある「ドイツでは発禁処分」は誤りだと私によって指摘され、西岡ははっきり認めています。興味ある方は、こんなの調べるのは簡単なので、Google検索を駆使して調べてみてください。確か、ドイツのAmazonも調べたかも。
「かつてはベルゲン・ベルゼンにも「ガス室」があったとされていた」について
戦争直後(1945年)のアメリカ国内向けのプロパガンダ映画である『ナチスの強制収容所/ナチス絶滅収容所』では、記憶では確かにベルゲン・ベルゼン強制収容所にはガス室があったとされていたように思います。こうした映画などで、戦争直後は誤った情報が流布していたのかもしれません。
それだけの話です。
事件直後に誤った情報が流れた事例としては有名なもので、松本サリン事件があります。河野氏が冤罪報道被害者として酷い目にあったことはよく知られていると思います。だからと言って、松本サリン事件そのものがなかったという人はいません。同様に、ベルゲン・ベルゼンにガス室があったとした誤った情報が流布されていたからと言って、ナチス・ドイツの殺人ガス室が無かったことになるわけではありません。
松本サリン事件で河野氏宅から薬品が発見されたため、警察が判断を誤ってしまったのと同様に、当時の米軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の悲惨な状況を見て、戦時中の情報通り、殺人ガス室での大量虐殺だと誤解したのです。西岡はどうしてこのように常識的に物事を考えないのでしょうか?
で、戦争直後はそうした情報が流布したために、作家のフランシス・トレヴェリアン・ミラーはそれらの情報をそのまま信じてそう書いたに過ぎないでしょう。ちなみに、ミラーは歴史家とは言えても歴史学者ではないようです。
「「ダッハウのガス室」の目撃証言」について
ダッハウのガス室については、2024年現在の博物館サイトの説明では以下のとおりです。
囚人医師のフランツ・ブラーハの証言は以下にあります。
ブラーハ医師の目撃証言は二種類あり、一つは終戦間際に米軍に尋問された時のものであり、こうなっています。
もう一つはニュルンベルク裁判でのものです(宣誓供述書)。
直接目撃し、ブラーハが診察した人数が若干異なっていますが、同じ事実について語っていると見做せます。またニュルンベルク裁判では「多くの囚人がこの方法で殺されました」と語っていますが、直接目撃したとは言っていません。先の尋問ではこのように語っています。
ブラーハの証言は尋問と裁判とで直接見た囚人の数がわずかに違っているだけで、直接見たものと伝聞とが割とはっきりしています。そして、よく読むと「死んでいるように見えた」と言っているだけで、本当に死んでいたのか、どうかいまいちはっきりしません。おそらくですけれど、博物館の表現が「ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人もいたという」として断定していないのも、そうした理由からだと思われます。
しかし、ダッハウのガス室は確かに、害虫駆除室ではない人間用のガス室であったことは確かで、それは親衛隊医師のジークムント・ラッシャー医師がヒムラーに宛てた手紙の中に書いてあります。
つまり、安楽死させられる障害者を使って、ダッハウに建設予定のガス室で戦争用のガスをテストしたい、とラッシャー医師は言っているのです。
ダッハウのガス室が未完成だったと述べたのは、ミュンヘン現代史研究所の所長をのちに務めることになった、マルティン・ブローシャートであり、1960年にディー・ツァイト誌に投稿した文書の中でそう述べています。
しかし、この投稿は、ディー・ツァイト誌上でのものと思われる当時の議論に応じたものであり、そうした議論があったという事実は、1960年当時には、ダッハウのガス室でガス処刑が行われていたのか、それとも行われていなかったのか、はっきりしていなかったことがわかります。ブラーハの証言を知っていたのか知らなかったのかについてはわかりませんが、たとえブラーハの証言を知っていたとしても、ブラーハが見たのはラッシャー医師による実験でしかなく、さらに本当に死んでいたのかどうかはっきりしないものであり、ガス処刑と言えるかどうかもはっきりしません。つまり、ブラーハの証言を認めても、ガス処刑の「確実な」証拠にはならないのです。
また、「ダッハウのガス室が完全に完成して「稼働」することはありませんでした。」と述べたブローシャートの真意は不明です。現代の博物館の見解ですら「いまだ解明されていない」なのですから、不明なことは不明としか言いようがありません。
しかしながら、ダッハウのガス室を未完成と述べたのは、1960年のブローシャートだけだと思われます(他は知らないだけですが)。修正主義者もこの投稿しか知らないはずなので、それだけのことで「今日、「定説」側の歴史家たちは、何故「ダッハウのガス室は未完成だった」等と言うのでしょうか?」などと、西岡本出版の1997年当時の「定説」側の歴史家全員があたかもそのように述べているかのように言うのは「おかしいとはお思いにならないでしょうか?」(笑)
さらに付け加えると、ダッハウの殺人ガス室を、修正主義者は戦後に捏造したものだと主張したいらしいですが、これもまた「ヒトラーの命令書」の時に述べたのと同じで、もしダッハウの殺人ガス室が捏造だとするのれあれば、連合国はどうしてもっと明確なガス処刑の事実を捏造しなかったのでしょうか? 上で述べたとおりブラーハの証言は実にあやふやなものでしかありません。捏造なら、そもそも何故ブラーハの証言がそのようにあやふやなのか? 何故もっと多くの明確な目撃証言を述べる偽証する証言者が一人もいないのでしょうか? ガス室のような物理的な建造物をせっせと作って、確かな証拠を一つも用意しない捏造などあり得るのでしょうか? そんなバカな話がありますか?
修正主義者の主張は無理筋すぎて話になりません。
「消えた「ガス室」」について
西岡は同じ話を何度も何度もグダグダ書き連ねるのが好きなようです。これも前項で話したことに、ブーヘンヴァルトの話を付け加えただけです。アンんまり事細かに反論してたら、前章のガス室よりも長くなりそうなので、この項目は飛ばします。戦後しばらくはよく分かってなかっただけで誤った情報も流れていただけです(松本サリン事件のように)。現代ですら前述したダッハウのガス室のように「よく分かっていない」ことはあるのですから。
「何故、「絶滅収容所」はソ連支配下のポーランドにしかないのか?」について
これもすでに述べています。んとに同じ話ばっかだな……。
「「アウシュヴィッツの証言」は全て真実か?」について
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の当時の航空写真については、たくさんの記事を起こしてきています(海外記事の翻訳がほとんどですが)。まず間違いなく、それら航空写真については私の方が詳しいと思います。
などなど、アウシュヴィッツの航空写真を扱っている記事は他にもまだあると思います。
確かに、火葬場建物の煙突からの煙を写した航空写真はありません。しかし一つ言っておきたいのは、火葬場は確かにあったという事実、そして火葬場では否定派は焼却遺体数に文句をつけるものの、火葬場が活動していなかったとは誰も言っていません。そして、1943年夏頃の写真だそうですが、確かに以下の火葬場2を南から移した写真で見る限り、煙突から煙が出ていたことがわかります。煙突の先端に付着した黒いものは紛れもなく煤でしょう。
またしても言いますが、これは西岡も所有しているプレサック本にある写真です。西岡は全然読んでないことがここからもわかります。
現代の高性能のスマホのカメラですらも、目で見えていた筈のものが写真に写っていない経験をした人はたくさんいるはずです。私はたまに料理の写真を撮ることがありますが、目視では湯気が上がっていたはずなのに、写真には全く写っていないことがありました。現代のスマホなどのデジタルカメラもかなり高性能なので、そういうことは少なくはなったものの、ないわけではないのですから、当時のスチルカメラが撮影できなかったとしても変ではありません。
推測ですが、高高度から地上を撮影すると、太陽光が十分である場合は特に、地表面付近からの反射光を撮影することになるので、その光の方が強いため、煙突からの煙ははっきり映らなくなったのではないかと思われます。煙は要するに極めて微細な粒子状物質が結合せずに漂っている状態と考えられるので、地表面からの反射光がその粒子間の隙間から漏れてしまい、煙自体は映らなくなるという理屈です。この推測がどこまで正しいのかはわかりませんが、理屈としてはそうなるように思います。
ところが、煙ではなく、修正主義者のほとんどが否定する、元囚人の証言者の証言にいくつか見られる「煙突からの炎」を写していると考えられる写真があります。
煙突から炎が出る理由は、これは火葬炉からの「巨大炎」ではなく、煙突内側に溜まった不完全燃焼生成物のタール(クレオソート)が排煙の高熱によって煙突火災を起こしていると考えられます。煙突火災が起きる可能性についてはマットーニョは否定していません。
これも笑止と言いたいくらいです。死体の山は航空写真ではなく、ゾンダーコマンドの有名な写真にありますし、死体焼却ピットも航空写真に写っていますし、「野焼き」の煙もちゃんと写ってます。
ゾンダーコマンドの写真については、死体の山じゃないじゃないか!と文句言う人もいるかもしれませんが、死体が焼かれているのは煙の向こうにある壕の中ですので。焼却ピットからの煙は、連続して撮影された航空写真を2枚用いてgif動画にしたものです。
「全く写っていない」? 寝言も大概にして欲しいですね。
「「ガス室目撃証言」がお互いに矛盾している例」について
そのマットーニョの論文に対しては、Holocaust Controversiesでバッサリ対処されているので、私から述べることはありません。
ブロック11については、クラクフ報告でもシアン成分を検出しているので、物的証拠もあるということになります。
「自分の「証言」を撤回した「目撃証人」たち」について
脚注(19)とあるので、それを以下に。
ネットにその新聞記事はないかと探したらあっさり見つかりました。
ルドルフ・ヴルバは、1944年4月10日にアウシュヴィッツ収容所を、アルフレッド・ヴェッツラーと共に脱出し、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅についての詳細な報告書を書き、1944年7月になるとハンガリー王国の摂政であったミクロス・ホルティに知られることになり、それまで続いていたハンガリー・ユダヤ人のアウシュヴィッツへの輸送をストップさせることになりました。1944年11月にはアメリカの戦争難民局から他の報告書とまとめられて出版され、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が全世界に知られることになります。その報告書は、以下で訳出してあります。
彼らの脱出の目的は、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅を外部に伝えるためだったのです。迫っていたハンガリーユダヤ人絶滅作戦のため、報告書は三日間という非常に短期間にタイプされたそうです。しかし、報告書の公表はどうやらかなり遅れ(ヴルバは報告書を受け取ったルドルフ・カストナーが抑圧したと主張しているそうです)、ハンガリー・ユダヤ人に何十万人もの犠牲を出した要因になったようです。
さて、ヴルバはツンデル裁判に検察側証人として出廷し、被告側弁護士で修正主義者のダグラス・クリスティに攻撃されました。その時の様子がトロント・サン紙によって伝えられたのでしょう。しかし、ヴルバは1961年のアイヒマン裁判にも証人として出廷しており、「1961年のアドルフ・アイヒマン裁判のためのヴルバの供述[203]によると、彼はガス室についての情報を、ゾンダーコマンド・フィリップ・ミュラーやそこで働いていたその他の人々から得ており、ミュラーは1979年にこのことを確認している[127]」(Wikipedia)とのことであり、ヴルバはツンデル裁判で初めて自分が目撃したのではないと語ったのではありませんでした。
ヴルバはそれら著書で、あたかも自分自身が目撃したかのように書いたのは事実のようですが、真相が収容所内の他の囚人から聞いた話だったとしても、それで真実性が失われるのでしょうか? 我々は現在、他の情報源からヴルバの記述の正確性を知ることが可能であり、こちらでは、ジャン・クロード・プレサックやロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは記述は概ね正確であると語っているとあります。西岡はその内容を確認していないことは明らかです。ヴルバは直接ガス処刑を目撃してはいないとしても、ゾンダーコマンドとして直接ガス処刑を目撃していたフィリップ・ミュラーらから聞いた話を書いていたのですから、事実の細部が正確ではなかったとしても、真実性そのものが失われるわけではありません。
これは前述の引用の直後にある単なる続きなのでどうでもいいのですが、この注釈20でまた西岡はやらかしています。
これは、上で翻訳引用した記事のことであり、その日付は1985年です。何故、西岡はこうも確認という作業を怠るのでしょうか?
どの口でそんな偉そうなことを言っているのでしょうか? 自分自身の記述すら確認せずによくそんなことが言えたものです。
「「証言」を選ぶのは誰か?」について
嘘をついているのはお前だ! と言いたくなるってものですが、西岡の著述とは別の趣旨で、ホロコーストに関する嘘の証言は確かにあったことは述べておく必要があると思いました。
ここに記される以外にも、怪しい証言や間違った証言、あるいは明らかに事実とは認められない証言は存在します。しかしこれは何もホロコーストに限った話ではなく、他の事件などでもたくさんのいわゆる嘘証言のケースは存在します。しかし、だからと言って十把一絡げに全ての証言を却下することもまたあり得ない話です。人間は嘘をついたり誤ったことを述べたりするのは誰もが知っている事実ですが、事実と認めて良い証言もあることは言うまでもありません。
しかし、ホロコースト否定派が、ホロコーストを肯定する証言をされると非常に困るのは真実でしょう。否定派は、全ての肯定証言を否定します。非現実的ですね。
注釈22は、
とありますので、読む必要はありません。詐欺師のロイヒターと、否定派教祖のフォーリソンなので。ロイヒターについては以下を。
肯定証言を全却下する否定派が何を言ってもナンセンスなだけです。全ての証言は否定・肯定に関係なく、可能な範囲で精査される必要があります。少なくとも、内容をしっかり確認しなければなりません。西岡は前述の通り、確認なんか全くしませんので、お前は何を言ってるんだ?でおしまいです。
「何故、「証言」を検証しないのか?」について
ここで西岡先生のおっしゃることは一理くらいはあって、ホロコースト関係の嘘証言にまんまとマスメディアが騙された事例がいくつかあるようです。西岡先生にとっては残念ながら「ガス室」とは関係ないものの、前述したリンクで示した記事の中にミーシャ・デフォンセカという名前がありますが、そこでも書いた通り、もしNetflixをサブスク契約している方がいらっしゃったら、『ミーシャと狼』を是非ご覧ください。思いっきりメディアが嘘証言に騙されています。
ところで、ホロコーストの嘘証言について幾つかは、定説側の人たちによって嘘が暴かれたり指摘されたりしてきたそうですが(例えばハーマン・ローゼンブラッドの事例は修正主義者の天敵でもあるデボラ・リップシュタットが指摘していた)、修正主義者って嘘を本当に暴いたことがあるのでしょうか? つまり修正主義者が「こいつは嘘をついている!」とした事例で、修正主義者に賛同する側でもなんでもない普通のメディアが取り上げてくれた事例とかはあるの? そんなの聞いたこともないのですが。
「「ガス室目撃証人」たちは法廷で訊問されているか?」について
西岡は「cross examination」のことをわかってるんでしょうか? これは日本語では一般に「反対尋問」と呼びます。「交差訊門」なる言い方は普通しないと思います。ググってもそんな熟語は見つかりません。
反対尋問とは何か、「ご説明するまでもないとは思いますが」(笑)、この程度私は説明しません(笑)
しかし私はフォーリソンが何を言っているのか理解できません。私はホロコーストに関連した裁判記録などほとんど目にしたこととはありませんが、しかし、こんな有名な例は知っています。ヘスはニュルンベルク裁判でアウシュヴィッツのガス室を証言した証人として超有名です。
ここでは弁護側証人であるルドルフ・ヘスですが、ヘスに対して何人かが尋問を行っています。一見するだけでは誰が弁護側で誰が検察側か分かりにくいと思うので、この裁判記録を「反対尋問」で文字列検索をかけてみてください。
アメン弁護士(アメン「弁護人」と訳すべきだったかもしれません)は、はっきり反対尋問を行っていたと言っているわけです。実際にこんな有名な事例があるのに、フォーリソンは何を言っているのか本当に理解できません。
しかしここで西岡のことを疑って、フォーリソンは本当は何を言ってたかを注釈23を辿ってまで調べようとすると、「これは、フォーリソン教授から、国際電話で直に聞いた話である」と書いてあったので確かめようもないのでした。確かめようもないことを注釈に普通書くか?(笑)
「連合国は拷問によってドイツ人被疑者の「自白」を得ていた」について
なるほど、1997年頃からそんな馬鹿げたことを言っていたのですね。強調表示してある「自白調書(Affidavit)」のことです。私はこれで散々西岡を問い詰めましたが、昔からそう言ってたのなら、道理で譲らないはずです。西岡はここで何重にも間違えたことを言っているのです。
まず、ヘスの証言として知られるものにはいくつかの種類があります。私も全部知っているわけではないので、代表的なものだけを挙げます。
1946年3月11日深夜(あるいは12日未明)に、ルドルフ・ヘスはイギリス軍憲兵隊に逮捕されます。そして、その日はハイデの町に送られ、そこから期間的には二日間、日数にすると三日間勾留されます。おそらくその(1)ハイデの街での最初の日に、一番最初の調書が取られています。ヘスの自伝では「調書に署名はしたが、なんと書いてあったのか知らない」と述べているのがそれです。この調書は公開されておらず、どこに保存されているかも不明だそうです。従って内容を知る人はいません。続いてヘスは、二日後、「ウェーゼル湖畔のミンデン」(これはヘス自伝の日本語版の誤訳で「ウェーザー川流域にあるミンデン」が正しく、ウェーザー川であって湖ではありません)にある英軍施設に移送されます。ここで取られた調書は(2)証拠NO-1210として知られています。そして4月になるとヘスの身柄はニュルンベルク裁判に移されます。ここで、裁判に先立って(3)宣誓供述書が作成されます。さらに、ニュルンベルク裁判での勾留中に心理分析官の(4)グスタフ・ギルバートによってヘスの証言メモが取られています。5月になってヘスの身柄がポーランド当局に移されると、裁判までの間に長期間にわたって尋問が行われたようですが、この期間の当局側による記録については裁判記録を含め私自身はその存在をよくは知りません(「ない」と言っているのではありません)。で、ポーランドでの勾留中にヘス自身が(5)回顧録を書いていたのです。
私との議論で分かったのですが、西岡は(2)の調書(NO-1210)と(3)の宣誓供述書を混同していたのです。なので、議論当時、話が通じず、議論が全然先へ進まなかったのです(笑)。西岡は、宣誓供述書をイギリス軍が作成したと思い込んでいました。
驚くべきは、西岡は「Affidavit」の訳は「自白調書」だと言い張って聞かなかったことです。ネットで調べるだけですぐ分かりますが、「Affidavit」の日本語訳は「宣誓供述書」です。私はその議論の時、図書館まで出かけてどでかい辞書まで何冊も調べて確認してるので間違いありません。でも今回やっとその理由がわかりました、1997年の本に自分でそう書いたからなのですね(笑)
西岡は今でもイギリス軍のNO-1210とニュルンベルク裁判の「Affidavit」の区別がついていないと思いますが、NO-1210はイギリス軍の拷問(?)によって作成されたと言えなくもないかもしれない程度には言えますが、「Affidavit」はあくまでもニュルンベルク裁判所管轄で作成されたものであり、そこでは拷問の事実を示すものは何もありません。
とりあえず、ヘスへの拷問疑惑は以下をお読みください。
しかしながら、ヘスの証言と言って私や歴史家たちが参照するのは、ほとんどヘスの自伝であり、イギリス軍による調書はもちろん、ニュルンベルク裁判やその他の証言を参照することはほとんどありません。何故なら、ヘスの証言は裁判証言や自伝等でも一貫して同じことしか言っておらず、自伝が最も詳しく書かれているからです。私はあまりにもヘスの自伝を読みすぎて、文庫本はすでに手垢でめっちゃ汚いです(笑)
アメリカの議会記録がどうたらと言っている件については、以下をお読みください。
これらを読んで西岡の話を馬鹿馬鹿しいと思わないのなら、あなたは立派な修正主義者です(笑)
上で示した『死の軍団』についての記事の中でほとんど述べていますが、インタビューだなんてどこにも書いてないし、「自慢」という言葉を使ったのは西岡のホロコースト否定仲間である木村愛二です。
『死の軍団』のどこにそんなことが書いてあるのでしょうか? これはおそらくフォーリソンの論文の記述を木村愛二が勝手に自己流に意訳してしまい「ルパート・バトラーによると」などと捏造したのです。
しかもこれはフォーリソンの感想でしかありません。本当にこいつらはどうしようもないですね。
ともかく、ヘスの証言が嘘であるという理屈は成り立たないことがわかります。ヘスがニュルンベルク裁判勾留中にグスタフ・ギルバートに述べたとされるアウシュヴィッツ犠牲者数「最大で150万人」が、ソ連の400万人よりも著しく低く、連合国に無理やり嘘を言わされたとするのなら、辻褄が合わないからです。しかも「最大で150万人」は、現在の推定値として認められている「110万人」の推計最大値である「150万人」に一致しており、非常に正確であることがわかります。さらにヘスの証言内容は、他の証言者の証言や文書証拠で十分裏付けることが出来、その信頼性はかなり高いと判断されるのです。
『死の軍団』に書かれた本当の内容をきちんと読むこともできず(西岡は、クラークがヘスを逮捕した部分の2ページ分のコピーしか持ってないことを知っていますが、それすらちゃんと読まず欧米の修正主義者の主張を単に鵜呑みにしているだけです)、連合国の取り調べでは拷問があったとして修正主義者が好んで話す「137人の睾丸が破壊された」話が、実はアメリカ上院議会による公聴会で、その記事を書いたとされていたヴァン・ローデン判事が「私はその記事を書いていない」と述べて否定されていたことも知らないのです(欧米の修正主義者が知らないんだから、西岡が知るわけもないのですが)。
「検証」? どの口がそんなことを言えるのでしょうか(笑)。ちなみに私は、上で示したリンク先記事に書いた通り、『死の軍団』の本それ自体をアメリカから取り寄せました。Amazonで注文しただけですけど(笑)。木村愛二は「絶版になっていて入手不能」とかなんとか言ってましたが「いとも簡単に」入手できました(笑)
「「ガス室」の存在に否定的な証言が存在する」について
とあったので、注釈29の文献は何かなと……
ちょっとだけネットで調べてみましたが、「H. P. Rullman」が「Hans Peter Rullman」という人物であることがわかった程度で、それ以上は不明でした。例に漏れずこれも欧米の修正主義者経由で知った程度の情報なのでしょう。
トレブリンカ収容所と呼ばれる収容所には、基本的には二つあって、一つは絶滅収容所より前からあった労働収容所であるトレブリンカ1と、絶滅収容所であるトレブリンカ2です。トレブリンカ1は絶滅収容所から2キロほど離れたところにあったそうです。注釈29の文献を読んでないので、もしかしたら西岡が言っている「ガス室なんて知らない」と証言した人はトレブリンカ1にいたからかもしれない、程度のことしか言えません。しかし、西岡は出典は示しても何の引用もしておらず、それだけで「トレブリンカの元被収容者たちの中から、自分はトレブリンカにいたけれど、「ガス室」など見たことも聞いたこともなかった、と証言する人々が幾人も現われた」を鵜呑みにして信じることは無理だと思います。
トレブリンカについては証言者はかなり多いようで、トレブリンカ絶滅収容所に関する戦後の裁判も数回行われており、それら裁判ではガス室を否定する証言者がいなかったことは、以下の修正主義者であるグラーフの論文からもわかります。グラーフ自身は以下で色々と怪しいと言っているだけです。西岡の主張とは異なりますね。一応歴史修正主義研究会にある他のトレブリンカに関する記事も目を通しましたが、「ガス室の存在を否定した証言者」は見当たりませんでした。
わからないものはわからないとしか言いようがないので次へ。
すでに前記事で述べた話なので飛ばします。ボンバの話が続いていますがそれも前述のとおりです。
「トレブリンカ裁判とは何だったのか?」について
では見比べてみましょう。
確かに、証言者が書いたとされるトレブリンカ絶滅収容所の見取り図と、航空写真で示された地形はまるで異なっています。なるほど! 証言者は嘘をついている! ……となりますか? そこで以下をご覧ください。航空写真を示すのは無理ですが。
東京メトロの路線図ですが、これを正確な地図だと言う人はいないと思います。しかも、同じ東京メトロの路線図なのに、異なったデザインのものがあることはよく知られていると思います。では、正確な地図ではないからと言って、それら路線図は嘘なのでしょうか? 馬鹿馬鹿しいですね。
実際には、その元囚人は収容所内の地表面にいただけであり、しかも囚人ですからいつでも自由に歩き回れたわけではなく、ましてや測量できたはずもなく、メモを取ることすら許されなかったに違いありません(そんなことをすれば即座に銃殺されたでしょう)。そして、収容所を脱走した直後か、あるいは戦後に記憶を頼りに見取り図を書いただけのことであり、むしろ正確に扇形を書いたとすれば、それこそあり得ません。西岡は何故そんなある意味人間離れした、と表現したくなるような無理難題を元囚人に要求するのでしょう?
しかし写真左端と、見取り図左端を見比べれば、かなり正確に鉄軌道の形が描かれていることがわかります。それだけでも、見取り図としてはそれなりに正確なものであると推定できます。さらに付け加えると、もし仮に、その見取り図が戦後の裁判の時に書かれたものだとするのであれば、その時期にはすでにトレブリンカの場所も地形も当然わかっていたので、嘘の図面を書かせるのであれば、陰謀エージェントはその扇形ではない見取り図を、扇形に修正させたに違いありません。
本当に西岡は、アホなことばかり言っているのです。「二重の鉄条網」? あんた自分で「「隠滅されたから」なのでしょうか?」と書いてるじゃないか。隠滅しておいて、「二重の鉄条網」を残しますか? 変な溜め息しか出ませんね……。
さて、トレブリンカ絶滅収容所が証拠隠滅のため収容所敷地が整地されて農場にされていたことを示す、こんな文書が残っているそうです。
過去、対抗言論のサイト、というかそのニュースグループの議論で、西岡がこの文書を相手に示されて「それのどこに証拠隠滅と書いてあるんですか?」などとつっこんでいたのを見た記憶があります(表現は違うかもしれません)。もちろん、その真意を確認したいところではありますが、グロボクニクは逮捕後、裁判に出廷する以前に自殺した(生きてた説もありますが)ので無理でした。しかし、この手紙の内容に一致する収容所は、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェツしかありません。西岡が示した航空写真をみると、その敷地にはいくつかの畑ではないかと思われる区画があるように見えるのですが。畑があるのなら農場ではないのでしょうか?
西岡も、トレブリンカが通過収容所であったと認めてはいるので、その航空写真ではもしそうだったしてさえも、施設は取り除かれており、西岡が何を言っているのか意味不明で理解不能です。
ちなみに、西岡は注釈32としてマーク・ウェーバーとアンドリュー・アレンの共著による論文を以下のように挙げていますが、
この論文は以下にあり
航空写真と見取り図の違いについては、
以上のとおり「正確ではない」と書いているだけで、西岡のようにあたかも証言者が嘘を書いたかのようには述べていません。同論文では、トレブリンカのガス室などについて色々と文句を言っていますが、そのうちの蒸気説については以下をお読みください。実にくだらない否定論です。親衛隊が親切に囚人に本当の殺害方法を解説した筈である、とでも言いたいのでしょうか? これまた馬鹿馬鹿しくて話になりません。
ネットで検索される場合は、「ジョン・デミャニュク」で検索されると良いかと思います。この話も、前述の『ミーシャと狼』同様、Netflixに『隣人は悪魔』というシリーズ番組がありますので、そちらの方が非常に詳しいので、サブスク契約されてる方は是非ご覧いただきたいと思います。
西岡は読者に「ソ連が諸悪の根源だ!」と印象付けたいのでしょうが、イスラエルで判決が覆えったのもソ連(およびソ連崩壊後のロシア)の情報でした。トレブリンカの残虐無比な看守であった、愛称「イワン雷帝」がデミャニュクとは別人のイワン・マルチェンコであるとソ連から出てきた情報で判明したからです。また、デミャニュクがトレブリンカの看守ではなかったとする結論にはなりましたが、本当の「イワン雷帝」と恐れられた看守はデミャニュクとは別人のイワン・マルチェンコだと判明したのであって、イワン雷帝がいなかったと結論されたのではないのです。
この最初のデミャニュクに対する裁判の最大の争点は、西岡の言う「ソ連発の「情報」」であったトラウニキ収容所の身分証明書にありました。裁判でもこの証明書の真偽についてかなりの議論がありましたが、この証明書はそもそもデミャニュクがトレブリンカにいたことそれ自体を証明するものではなかったのです。証言者がそのように証言したからですが、中にはトレブリンカではなくソビボルの看守だった、と証言した人もいたのです。しかし、トレブリンカにいた暴君的な残虐な看守であるイワン雷帝だ、とする証言者が多っかったので、イスラエルの裁判ではデミャニュクがそのイワン雷帝であったのか・なかったのかについてについてが、審議の焦点となってしまいました。
しかし結果的にはソ連崩壊後、ソ連の持っていた膨大な文書資料が公開されたことにより、トレブリンカの残虐な看守であったイワン雷帝は、デミャニュクではなく、別人のイワン・マルチェンコだと判明し、デミャニュクは無罪となって、剥奪されていたアメリカの市民権が復活したのです。デミャニュクがトレブリンカにいたことを示す証拠が証言以外になかったことの本質的な意味を、イスラエル当局は理解していなかったことが、この裁判の最大の誤りであったと言えます。実際には、デミャニュクの供述はソビボルに関しては二転三転しており、明らかに誤魔化していましたし、ソビボルにいたことについては明確にデミャニュク自身で証拠すら残していたのです。
しかし、アメリカ当局はしつこくデミャニュクを追求し続け、デミャニュクがソビボル、マイダネク、フロッセンビュルクなどの収容所の看守であったことを突き止め、アメリカは再度デミャニュクの市民権を剥奪するに至り、数年間はその措置が停止されたものの、ドイツへ強制送還されました。ドイツはソビボルでの集団殺人に加担したとしてデミャニュクに有罪判決を下しました。最終的には、デミャニュクは判決を不服として上訴したのち、老人ホームで高齢のため亡くなってしまいました。
ところで、西岡は「ソ連発の情報」がいい加減だと主張していますが、デミャニュクを無罪としたのも有罪としたのも全てソ連発の情報であり、最初に出てきた身分証明書も、結局その偽造(イスラエルの裁判ではしつこく何人も鑑定家のような証人を出廷させKGBによる偽造だと主張しました)は証明されておらず、その後に別の情報によってデミャニュクはトラウニキにいたことが証明されているので、いい加減ではなかったことになります。いい加減なのは何の検証も確認もしない西岡の方です。
「あるユダヤ人女性の証言」について
このルース・エリアスの証言については、昔の『対抗言論』のニュース・グループで西岡と議論していた山崎カヲル氏が怒っていました。
私自身は映画『ショアー』も見てないし、本も読んでいないので、この山崎氏の言葉から推定するしかありませんが、まず、西岡が述べていることは少し知識が必要なのです。
先ず、「テレジン収容所」とは何かというと、これはテレージエンシュタット収容所(通常、収容所に隣接するテレージエンシュタット・ゲットーを含む)を指します。この収容所は他の強制収容所とは異なって、特権的なユダヤ人の移送先でした。簡単な説明は日本語Wikipediaでいいと思います。通過収容所扱いを受けたユダヤ人とは別に、テレージエンシュタットに特権的に移送されていたユダヤ人は1943年ごろから何回かに分けてアウシュヴィッツ・ビルケナウに移送され、家族収容所区画に家族ごと居住させられます。そして、他のユダヤ人囚人とは異なって、移送直後の選別(労働不適格者のガス室送り)はなく、全員がそこで生かされることになったのです。その理由については明確な理由はわかっていなかったと思います。ただ、推測としては国際赤十字の視察を騙す目的があったのではないかという説があるようです(視察どころかアウシュヴィッツ収容所内へは国際赤十字は入らせてもらえませんでした。入ったのはソ連による開放後です)。しかし、移送から半年後にテレージエンシュタットから移送されてきたユダヤ人はほとんど全員ガス室で殺されたとされています。その様子については、アウシュヴィッツの巻物の一つであるザルマン・グラドウスキーの巻物に記載されています。他にも証言はあります。スタニスワフ・ヤンコフスキーなど。
ショアーでは、ルース・エリアスの証言を「半年間は生かされた」を示す意味で使っていたのでしょう。そこを西岡は切り取ってガス室否定の証拠であるかのように使ったので、山崎氏は怒ったのでしょう。しかし私は思います、西岡はショアーの編集のコンテキスト、文脈をまるで読めなかったのだろう、と。
ところで、ルース・エリアスはアウシュヴィッツを生き延びた数少ないユダヤ人の一人ではあったのですが、どうして殺されずに生き延びたのでしょう? それは、あのメンゲレ医師の実験に付き合わされたからなのです。
アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、ポーランド人のスタニスラワ・レズチンスカ助産師の孤軍奮闘もあって、女性囚人の出産も認められるようになっていました。しかし、リンク先で書いたようにそれは新生児の生存を認めたわけではありませんでした。中には、このように医学実験の実験台にさせられた新生児もいたのです。そんな状況下にいたルース・エリアスの心境は察するに余りあります。
確かに、ルース・エリアスはアウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室の存在をアウシュヴィッツにいた間、信じなかったようです。それは以下の動画でも語られています。
ですが、それはその時だけの話であり、彼女はガス室を決して否定しているわけではありません。結局、西岡は否定論を信じたいだけで、何の確認も検証もしていないことがここでもわかります。ガス室の存在を信じなかったアウシュヴィッツの囚人は他にもいます。
しかし、それらに信じなかった囚人の証言をガス室否定に使用する否定派の人たちをどう思いますか?
山崎カヲル氏は少なくともそんなことは言いませんでした。西岡がショアーから否定論に都合のいいところを切り取った、として怒ったのです。そして私は西岡はまたしても例に漏れず何の確認も検証もしていないと呆れました。ネス湖のネッシーは何度も実際に調査が行われ、ネッシーの存在は否定されていますし、証拠写真の捏造なども暴かれています。ガス室の存在に否定的な証言として否定派が挙げた例も、上で示したリンク先の記事でそれらは否定の証拠にならないと根拠をあげて示されています。
「「ガス室」に否定的な証言は黙殺されてきた」について
ドイツは、刑法130条の民衆煽動罪でホロコースト否定(ジェノサイド否定)の主張を公に行うことを禁止していますが、それはそれとして、注釈40を見て呆れました。
ティース・クリストファーゼンは『アウシュヴィッツの嘘』を著した元親衛隊員で、ガチガチのホロコースト否定派です。クリストファーゼンは、嘘をついていたと自分でそう言っているため、とっくに終わってます。
シュテークリヒもガチガチのホロコースト否定論者です。ドイツ語Wikipediaによると、「1974年、ハンブルクの財務判事シュテークリヒは、NPDの会員であり、右翼過激派雑誌に絶え間なく論文を発表していたため、懲戒手続きが開始され、早期退職と5年間の年金減額という結果に終わった[1]。」NPDとは「ドイツ国家民主党」の略称で、日本の公安調査庁によると「「ドイツ国家民主党」(NPD)は,1964年に結成された極右政党。人種主義的な国家主義を唱えるとともに,ドイツの国境線を1937年時点に戻すことなどを要求している」だそうです。
別に、シュテークリヒはそのような思想を持っているから信用すべきではないと言っているのではありません。西岡はシュテークリヒが極右政党の会員だったという事実や、ガチガチのホロコースト否定論者だという事実を書かないことを問題視しているのです。西岡は、定説側の歴史家は否定的な証言を抑圧してきたと主張しながら、自らはシュテークリヒやクリストファーゼンが否定論者であることを書かない。これは二重基準・ダブルスタンダードと言わざるを得ません。西岡は読者を欺いているとさえ言い得ると思います。
「火葬場の建物が「ガス室」と混同されていることの意味」について
この項目は西岡がぐだぐだと自身の感想・意見だけを書いているだけなので、特段言うべきこともないのですが、上の引用箇所は嘘ですので、繰り返しになりますがそれだけは言っておきます。ガス室の存在は決して証言だけに依拠しているわけではないことは、西岡が自分で持っていると豪語している2024年1月現在、日本円で20万円以上もするプレサック本を読めばわかる話です。
「物証」についてもすでに示しています。それら証拠の一つ一つについて、否定派からの反論があるのも重々承知していますが、その否定論にはさらなる反論もあることも述べておきます。しかしそうした議論とは別に、「証言だけに依拠している」は完全に嘘です。
「731部隊の研究者が語った「証言」の問題」について
西岡が、その教授からそのような大事な話を聞いておきながら、どうしてその教授が「思い違いによる証言」と判断できたのかについて、自分の胸に聞くことができないのは実に奇妙なことです。そして西岡はこのように述べるのでさらに理解困難になるのです。
西岡の弁をそのまま借りると、その教授は「詳しく聞いて」証言の内容を精査していったのです。ところが西岡は、証言者に証言など聞いたこともないのだそうです。
マルコポーロ事件の際、そのマルコポーロに記事を書くために一生懸命、阪神淡路大震災を取材したにもかかわらず、廃刊になったので記事を載せられなくなった当時の江川紹子氏は、それが悔しかったのかどうかは知らないけれど(悔しさは滲み出ているように思えるが)、雑誌『創』95年4月号で、西岡の会見を取材し、「収容所からの生還者などまだまだ多数生存しているはずのユダヤ人関係者へのインタビューは一切行っていないことを明らかにした」と書いています。
しかもその教授は「その人はウソなどはついていない」とも西岡は書いているのに、なぜ西岡はホロコーストのガス室を肯定する証言を、嘘だとするかの如く、ほとんど断定に近い疑問を呈するのでしょう? あなた、アブラハム・ボンバの証言は嘘だと言ってるじゃないか。そうは言ってないとは言わせないぞ。
ほんとに西岡は無茶苦茶(笑)
ではまた次回。長くなってすみませんm(_ _)m