アーヴィングvsリップシュタット裁判資料(2):アウシュヴィッツ-1
アーヴィングとリップシュタットの裁判の本題は、リップシュタットが自著『ホロコーストの真実』で書いたアーヴィングへの評価が名誉毀損になるかどうかでした。しかし、世間的な大方の見方では「ホロコーストがあったかどうかを問う裁判」と思われている向きもあるかと思います。アーヴィングは、ツンデル裁判以降、明確にホロコースト否定論者に転じたわけですが、アーヴィングのホロコースト否定の主張が正しいのであれば、リップシュタットがアーヴィングに名誉毀損したことになります。つまり、この意味では、ホロコースト否定が正しいのかどうかという意味で、ホロコーストがあったのかなかったのかを問うた裁判だと言えるのかも知れません。
今回取り上げる専門家は、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトです。長いのでヴァンペルトと表記しますが、ヴァンペルト教授は元々は建築学部の教授でしたが、アウシュヴィッツ収容所の研究を行って、アウシュヴィッツ研究の第一人者と言われています。アウシュヴィッツはもちろん、ホロコースト否定派が最も攻撃を加える存在であり、アーヴィングは「戦艦アウシュヴィッツを沈めろ!」と自身の聴衆に向かって叫んでいたそうです。従って、ヴァンペルトvsアーヴィングの対決は、この裁判の最も注目されるべき戦いでもあったのです。
さて、そのヴァンペルト教授が裁判に提出した専門家資料であるヴァンペルトレポートは、前回のブラウニングの報告書に比べて非常に長いです。実は半年くらいかそれ以上前に一度訳そうかと試みたことがあるのですが、あまりに長いのでその時は諦めました。でも、その内容には私の知らないことも豊富に書かれていたのを知っていたので、やっぱりぜひ読んでみたいと思い、今回訳すことにしました。
全体でどれくらい分量があるのかもあまり見当がついていませんが、取り敢えず何回かに分けて記事にしていきます。ちなみに、多分ですけど、ネット否定派が嫌っている「正史派」学者のナンバーワンはリップシュタットで、二位はこのヴァンペルトかも知れません。ヴァンペルト教授はアウシュヴィッツの話題があると何かと表に出てくる人で、これを書いているつい最近NHK-BSで放映された『フランケンシュタインの誘惑』でアウシュヴィッツの火葬場に深く関わったトプフ社のクルト・プリュファー技師をテーマにしていたのですが、ヴァンペルト教授も当たり前のように出てきました。それだけに目立つのかも知れませんね。
▼翻訳開始▼
ヴァンペルトレポート by ロバート・ヤン・ヴァン・ペルト
前書き
1. 本レポートの目的
本報告書は、1998年12月15日付のマスター・トレンチの命令により、各当事者が訴訟手続の中で関連する問題に対処するために専門家の証拠を提出することができると指示されたことを受けて、アウシュヴィッツ、そのガス室および焼却施設、およびいわゆるユダヤ人問題の最終的解決におけるその役割に関するデイヴィッド・アーヴィングの発言の問題について、裁判所が専門家の意見を提供するのを支援する目的で作成されたものである。
2. 私の資格と専門知識
私は、カナダのウォータールー市にあるウォータールー大学建築学部の教授である。私は1987年からこの大学で教鞭をとっているが、国際的に公募された結果、建築学の助教授に任命された。1991年には、私の教育と研究の質に対する内外の徹底したピアレビューを経て、終身在職権を得て准教授に昇進した。1996年には、私の研究の質に対する内外の徹底したピアレビューを経て、正教授に昇進した。
私は、主要な研究大学の上級研究員として必要な、通常の学術的資格をすべて取得している。私は、オランダのライデンにあるライデン大学で、思想史の博士号1、建築史の修士号に相当するオランダ語の学位2、古典考古学と美術史の学士号に相当するオランダ語の学位3を取得している。私は、国際的に認められた主要な学術賞の受賞者であり、奨学金に基づいて授与されている4。
私は5冊の学術書の著者または共著者であり、そのうちの1冊(高い評価を受け、他の2つの言語に翻訳されている)はアウシュヴィッツの歴史を直接扱っており5、もう1冊はアウシュヴィッツの歴史の歴史学的な意味合いを扱っている6。他にも13冊の学術書に章を寄稿しており、そのうち3冊がアウシュビッツに関するもの7、1冊がホロコーストに関するもの8である。私は雑誌や学会のアンソロジーに掲載された査読付きの論文11(そのうち4つがアウシュビッツに関するもの)の(共同)著者であり9、査読のない論文18(そのうち5つがアウシュビッツに関するもの)を執筆している10。アウシュビッツに関する私の仕事は、BBCのドキュメンタリー番組11の主題となり、映画にも登場した12。また、論文でも議論され、歴史学的な議論の対象となり、さらには哲学的な考察の対象ともなった13。私はアウシュヴィッツについて、20の学術会議14や、北米、ヨーロッパ、イスラエルの50以上の大学、カレッジ、アカデミー、研究図書館、その他の(高等)教育機関で講演を行ってきた15。アウシュヴィッツとホロコーストについての知識を深めるためのこれらの貢献は、文書と講演の両方において、私の主張と結論のすべてを確かな経験的証拠で立証した。
アウシュビッツに関する私の著書は、2つの主要な賞を受賞し16、北米やヨーロッパの多くの主要な新聞、雑誌、学術誌で著名な歴史家たちから好意的な評価を受けている17。
私は1987年にアウシュビッツの歴史について一般的な研究を始め、1989年からはアウシュビッツの歴史について体系的な一次研究を行ってきた。1989年以降、ほぼ毎年、研究のためにアウシュビッツを訪れ、長期あるいは短期の滞在を繰り返している。
3. 素材の説明
本報告書は、1 番目と 2 番目の被告の弁護士であるダベンポート・ライアンとミシュコン・ド・レイア(以下、「指示した弁護士」)の指示に基づいて作成された。私は、1998年2月24日にミシュコン・ド・レイアの事務所で行われた会話、1998年6月9日にミシュコン・ド・レイアから受け取った書簡、1998年8月21日にダベンポート・ライアンから受け取った書簡から成る書面および口頭での指示を受けた。
ミシュコン・ド・レイアからの手紙には、私の仕事は次のように書かれていた。
1998年8月21日付けのダベンポート・ライアンからの手紙という形で、この問題に関する私の仕事の契約書には、5 つの争点があると記載されており、そのうちの 2 つ、つまり(i)と(ii)は私自身の専門性に直接関係するものであった。被告は以下のことを正当化しようとしている。
「立証責任は被告側にある」ことを確立した後、手紙は次のように続けた。
私は、2通の手紙に副署をして、1通をダベンポート・ライアンに返して、自分の任務を受け入れた。
本報告書は、ミシュコン・ド・レイアの書簡で提起された問題を解決するものであり、特に、「二次被告の弁護」の第1節と第2節、およびアーヴィングの「二次被告の弁護に対する回答」に記載されている中核的な争点を解決するものである。アウシュヴィッツにはガス室があったこと、それを示す戦時中の記録的証拠があること、SSの暗号がガス処刑について沈黙していても、ガス処刑が行われなかったということにはならないこと、「アウシュヴィッツでの殺戮作業によって生み出された100万人の死体」がないことは、アーヴィングが「二次被告の弁護に対する回答」で主張しているように、犯罪がなかったことを示すのではなく、火葬場の効率性を示すことを示すことになる。
4. 活動に関連する文書
私は、本訴訟の過程で被告が所有するようになった、または本訴訟の目的で作成された以下の文書にアクセスすることができた。
1. 嘆願書
1. 1996年9月5日に送達された請求明細書
2. 1997 年2月12日および4月18日に送達された1番目および2番目の被告の答弁書
3. 1997年4月19日に送達された両被告に対する答弁書
2. 原告が開示義務に従って開示した文書:本報告書の脚注で参照した原告の各種文書リストからの各種文書。
5. 関連する資料や意見
1. 私が報告書と結論の根拠とした関連資料は、報告書の脚注に詳述されている。
2. アウシュビッツの歴史に関する資料は、以下のように分類されるさまざまな証拠となる歴史的資料から得られている。
1. 手紙、設計図、アウシュビッツ中央建設事務所で行われた会議の議事録、予算書、請負業者の入札書、材料配分の要求書、請求書などの同時代の文書は、オシフィエンチムのアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館のアーカイブ、モスクワのオソビイ・アーカイブ(このコレクションはマイクロフィルム化され、ワシントンD.C.の米国ホロコースト記念博物館で入手可能)、コブレンツのドイツ連邦アーカイブに保管されている。
2. (a)1947年にワルシャワで行われたルドルフ・ヘスの裁判、(b)1972年にウィーンで行われたアウシュヴィッツの建築家ウォルター・デジャコとフリッツ・アートルの裁判の未発表の記録。
3. 1945年にリューネブルクで行われたヨーゼフ・クラマーらの裁判、1945年と1946年にニュルンベルクで行われたヘルマン・ゲーリングらの裁判、1961年にエルサレムで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判、1963年、1964年、1965年にフランクフルトで行われたムルカらの裁判の謄本。
4. 強制収容所の状況を伝える現代の新聞記事、雑誌記事などの出版物
5. ヴルバ・ヴェッツラー報告書やニュルンベルクでのヘス尋問の記録など、戦後に編集されて出版された現代の文書や報告書。
6. 戦後に書かれ、出版されたルドルフ・ヘスの自叙伝などの回想録。
7. 戦後に出版された学術的な歴史研究。
3. ホロコースト否定全般、フォーリソン事件、ツンデル裁判、ロイヒター報告に関する資料は、以下のように分類される様々な証拠となる歴史的資料から得られている。1. アーヴィングの『Further Discovery』で入手可能になった手紙などの同時代の文書。
2. 1985年と1988年にトロントで行われたエルンスト・ツンデルの裁判の未発表の謄本
3. ポール・ラシニエ、ロベール・フォーリソン、アーサー・バッツ、ティース・クリストファーセン、ウィルヘルム・シュテーグリッヒ、フレッド・ロイヒターなどのホロコースト否定派が発表した著作。
4. ホロコーストの否定を報じた現代の新聞記事,雑誌記事,その他の出版物。
5. ホロコーストの否定に関する学術的な研究論文。
4. デイヴィッド・アーヴィングのアウシュヴィッツ、ホロコースト、ホロコースト否定全般、ツンデル裁判、ロイヒター報告書との関わりに関する資料は、以下のように分類される様々な証拠となる歴史的資料から得られている。
1. アーヴィングの『Further Discovery』で入手可能になった手紙、オーディオテープ、ビデオテープなどの同時代の文書。
2. 1988年にトロントで行われたエルンスト・ツンデルの裁判の未発表の謄本
3. 出版されたアーヴィングの著作物
4. アーヴィングについて報道した現代の新聞記事、雑誌記事、その他の出版物。
5. ホロコースト否定に関する学術的な研究論文。
私の調査では、これらのカテゴリーの情報源には信頼性の階層があると考え、本報告書を作成する際にそれを考慮に入れた。最も重要な信頼性の高い情報源は、同時代の文書と、公開・未公開の裁判記録である。残りのカテゴリーの信頼性は、それらが作成され、整理され、抽出された文脈に依存する。私は、一つの証拠資料に過度に依存することは避けた。
私は、アーカイブの記録は、最初にまとめられたときには必ず特定の方法で組織化され、構造化されており、必然的に特定の目的のために設定されるという事実を考慮した。口述証拠の信頼性は、記憶している出来事からの時間的な距離、特定の出来事における役割、出来事の説明をする際の証人の利益と、その説明を記録する際の対話者の利益に依存する。私は、歴史家が新しい発見をしたことを示すために、情報を無批判に受け入れる傾向があることを知っているが、政治的あるいは個人的な説得力をすべて捨てて、証拠をその文脈の中で検討しようとした21。
序文
以下のページは、「アウシュヴィッツ」という固有名詞、「ホロコースト」および 「ホロコースト否定」という名詞に具現化された複雑な問題領域についての洞察を法廷が得るのを助けることを目的とし、1987年から1997年までの10年間に集中して、デイヴィッド・アーヴィングがこの関連性に関与した方法を確立しようとするものである23。この報告書では、原告の被告に対する訴えの中で、私自身の専門性に関わる中心的な問題であると思われるものに答えることができる資料とその考察を提供しようとしている。これは、以下の10の質問に要約される。
1. アウシュヴィッツが殺人ガス室を備えていたこと、そして、これらのガス室が組織的に使われていたことが、合理的な疑いを超えて証明されているのか。
2. アウシュヴィッツが1942年夏から1944年秋にかけて、ユダヤ人の絶滅収容所として機能していたことが、合理的な疑いを超えて証明されているか。
3. アウシュヴィッツに到着したユダヤ人のほとんどが、到着直後に前述のガス室で殺害されたことが、合理的な疑いを超えて証明されているか。
4. 何人のユダヤ人がアウシュヴィッツ到着時にガス室で殺されたのか、何人のユダヤ人が収容所内で偶発的な残酷さ、一般的な剥奪、疲労、病気の影響で殺されたり死亡したりしたのか、他に何人のユダヤ人が様々な原因で収容所内で死亡したのかが、合理的な疑いを超えて立証されているのか。
5. デイヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングは、アウシュヴィッツには殺人ガス室があり、これらのガス室が組織的に使われていたことを否定したか。
6. デイヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングは、アウシュヴィッツが1942年夏から1944年秋のあいだ、ユダヤ人の絶滅収容所として機能していたことを否定したのか。
7. デイヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングは、アウシュヴィッツに到着したユダヤ人のほとんどが、到着直後に、前述のガス室で殺害されたことを否定したのか?
8. デイヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングは、責任ある学者が行ったアウシュヴィッツで死亡した人々の数についての研究結果を、この問題について真剣に調査することなく、否定したのか。
9. デイヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングは、ロベール・フォーリソン博士やエルンスト・ツンデルなどの有名なホロコースト否定論者と手を組んだのか。
10. デボラ・リップシュタットの『ホロコーストを否定する』が出版されるまでに、デヴィッド・ジョン・コーデル・アーヴィングはホロコーストを否定したか。
本報告書は、これらの疑問に答えるための資料となることを目指している。そのために、本レポートは5つのパートで構成されている。
第1部は、「歴史について」と題して、アウシュヴィッツ絶滅収容所に関する現在の知識を形成している最も重要な要素を読者に紹介し、収容所の歴史が非常に複雑であること、そして、このことが時折、初心者に混乱をもたらし、ホロコーストを否定しようとする人々に機会を与えていることを論じようとするものである。このセクションでは、アウシュヴィッツがホロコーストの象徴となった理由と、犠牲者の数を評価するために現代の学術界が行っている試みについて述べる。
「証拠について」と題された第2部では、アウシュヴィッツ収容所が大量殺戮の場として使われていたことを示す瞠目すべき証拠が、戦時中に脱走した収容者の報告の結果として徐々に明らかになり、他の強制収容所で解放された直後の元アウシュヴィッツ収容者の目撃証言で語られ、1945年と1946年に行われた法医学的調査で確認され、収容所が稼働していた時期に雇用されていたドイツの有力者の告白で裏付けられたことを紹介し、検討する。報告のこのセクションでは、アウシュヴィッツに関する知識が、アーヴィングが主張しているように、イギリスの宣伝者たちによる戦時中の捏造であったということは、きわめてありえないことが明らかになるだろう。その代わりに、アウシュヴィッツに関する我々の知識が、独立した証言の収束からどのようにして生まれたのか、幾何学的に進行しながら累積的に生まれ、一方では「合理的な疑いを越えて」事実を知る判断によって、他方では無条件の確実性を約束する常に後退する地平線によって囲まれた領域のどこかに位置する認識論的地位を獲得したのかが示される。ジョン・ウィルキンスの言葉を借りれば、アウシュビッツはドイツ軍がガス室を使って約100万人を殺害し、その遺体を火葬炉で焼却した絶滅収容所であるという声明を「道徳的な確実性」として主張することができることが示されるだろう24。
第3部は、「文書について」と題して、アウシュヴィッツが絶滅収容所として使われたことを裏付ける、戦時中に作成された数少ないドイツの現存する文書について論じ、(政治的)敵対者を投獄するための「普通の」強制収容所が、全民族のための絶滅収容所へと変化していった経過を見極めることができる。最終的解決策がアウシュヴィッツで展開され、1945年1月のアウシュヴィッツ公文書館の焼却によって完了した証拠の一般的な組織的破壊を生き残った文書はわずかである。最初の3部を合わせれば、アウシュヴィッツが、ガス室を備えた意図的に設計された火葬場によって、少なくとも100万人(そのほとんどがユダヤ人)の死を要求した絶滅収容所であったことが、合理的な疑いを超えて十分に立証されるであろう。
第4部は「否定について」と題され、アウシュヴィッツがホロコースト否定の焦点となった理由を分析し、ホロコースト否定を世間に知らしめた、いわゆる「フォーリソン事件」の最も重要な側面をレビューしている。また、絶対的な真実として確立できないものはすべて、作られた虚偽のゴミ箱に押し込めるという誤った二分法を見直し、ポール・ラシニエ、アーサー・バッツ、ティース・クリストファーセン、ヴィルヘルム・シュテーグリッヒ、フレッド・ロイヒター、そして最も重要なことにはロベール・フォーリソンなど、さまざまなホロコースト否定派がアウシュヴィッツの絶滅収容所としての使用に疑問を投げかけたり、否定したりするために作った解釈学的・疑似科学的な議論に反論している。1980年代後半から、デイヴィッド・アーヴィングは、ラシニエ、フォーリソン、バッツ、クリストファーセン、シュテーグリッヒ、ロイヒターが作成した宣伝文句を折衷的に利用している。ロイヒター報告を支持し、それに続いて出版したことで、アーヴィングは、フォーリソンがその前の年に開発し、改良し、広めた筋金入りのホロコースト否定の形、すなわち、アウシュヴィッツのガス室は機能していなかったというテーゼを中心とする立場を受け入れた。言い換えれば、アーヴィングのアウシュヴィッツに関する立場は、彼自身が考案したものではない。フォーリソンの路線を大いに採用したのであるから、その結果、裁判の際にアーヴィングが「10万人程度のユダヤ人が殺されたかもしれない」と発言して世間の注目を集めたことや25、リップシュタットの『ホロコーストを否定する』でアーヴィングが裁判に参加したことが語られていること、そして今回の訴訟は、最初のフォーリソン事件の余波と考えて差し支えないだろう。
第5部は、「アーヴィングについて」と題して、デイヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定派との接点や、彼らの著作から派生した議論を、自らの目的のためにどのように利用してきたかを議論する。このパートでは、アーヴィングが1990年代初頭に、出版社や講演者として、ラッシニエやフォーリソンらがもたらした否定主義の福音を最も効果的に伝える伝道師となったこと、そして1990年代半ばに、戦略ではなく戦術を変えたことを明らかにする。
結論では、これらの疑問をもう一度提起し、私の答えを示す。
私は、被告側の弁護士から依頼を受けた一方で、原告側に向けてこの報告書を書いた。私は、歴史に関する問題は法廷で扱われるべきものではないと考えており、過去にカナダのツンデル、フランスのフォーリソン、ドイツのアーヴィングといったホロコースト否定論者の起訴に反対してきた。もしアーヴィングがこの事件の被告であったならば、私は検察官の指示のもとに、「アウシュビッツ」「ホロコースト」「ホロコースト否定」「デイヴィッド・アーヴィング」の結びつきによって提起される疑問を考えることに同意しなかっただろう。
しかし、私は原告や被告に偏見を持たずに出発したが、自分で話すことのできない人たちに対するコミットメントを持っていたし、これからも持ち続ける。エディス・ウィショグロッドとともに、私は、歴史家の第一の責任は、生きている人に対してではなく、彼らが正しかろうが間違っていようが、善だろうが悪だろうが、死んだ人に対してであると信じている。歴史家は、沈黙させられた人々の代弁者でなければならない。
私は、いかなる歴史家も、何らかの形で「異端の歴史家」になることなしに、責任をもってアウシュヴィッツの世界に触れることはできないと考えている。また、絶滅収容所の歴史、あるいはそれ以外の残虐行為の歴史を扱おうとする歴史家の試みについて、最初に問うべきことは、すべての歴史、とりわけアウシュヴィッツの歴史に伴う倫理的責任をどのように受け入れるか、あるいは拒否するかということだと思う。アウシュビッツ」という言葉が示すように、人類の連帯を大きく裏切った過去に対して、歴史家は決してゲームをしてはならないのである。
そこで、私は、被告のためにも原告のためにも偏見を持たずに、アミカス・キュリエとしてこの報告書を書いたが、アウシュビッツの犠牲者に忠誠を誓い、彼らの殺人者に忠誠を誓うことを宣言する。なぜなら、殺人者が犯罪を否定したいという願いと、傍観者が目撃したくないという願いが根本的に共謀しているからである。ワルシャワ・ゲットーの蜂起とそれに続くマイダネク・アウシュビッツへの強制移送を生き延びることができたのは、「炎と有刺鉄線の中を通ってゲットーの歴史を世界の前に投げ出すことができるまで運ぶという神聖な使命を帯びていた」と感じていたアレクサンダー・ドナットは、マイダネクの同じ収容者であるシッパー博士が、生存者が自分たちの物語を保存することがいかに困難であるかを予想していたことを『ホロコースト王国』に記録している。たとえ何人かが生き残って、「この血と涙の時代の歴史を書くことができると私は確信しているが、誰が私たちを信じるだろうか。誰も信じようとはしないだろう。なぜなら、私たちの災害は文明世界全体の災害だからだ。.... 私たちは、消極的な世界に対して、自分が殺された弟のアベルであることを証明するという、ありがたくない仕事をしなければならないだろう.... 」27
イタリアの生存者であるプリモ・レーヴィは、『溺れた者と救われた者』の中で、SSの看守が囚人に与えることを楽しみにしていた次のような訓示を記録している。
シッパー博士、アレクサンダー・ドナート、プリモ・レーヴィの3人は、歴史家、弁護士、生存者、傍観者、加害者など、アウシュヴィッツの歴史にアプローチする誰もが直面している歴史学的な問題の核心を見抜いていたと思う。そして、彼らは、1980年代初頭に、フランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールが厳密な分析を行った形而上学的な問題にも触れている。
そこでリオタールは、アウシュビッツの歴史家の仕事を、肯定的な証拠を見るだけでなく、「知識の規則のもとでは提示できないものに耳を貸すことによって」冒険することを余儀なくされるものと定義したのである。もちろん、これは歴史上のあらゆる事実に当てはまることであり、人は証拠となるものからそれが意味するものへと移っていくのである。アウシュビッツの場合だけは、これがより一層当てはまる。そしてリオタールは、「アウシュビッツは、この点で最もリアルな現実である」と結論づけている30。
このような状況を考えると、ホロコースト否定論が現在の目的にかなっているかどうかという問題は、アウシュヴィッツを構想し、無数の人間だけでなく、自分たちの行為の証拠を破壊する目的で活動したヒムラー、ハイドリヒ、ヘスのような人々の歴史的利益にかなっているかどうかという問題とは無関係であるように思える。
第一部 歴史について
I アウシュビッツ31
第二次世界大戦について知っている大多数の人々は、アウシュビッツが、国家社会主義者によるヨーロッパのユダヤ人絶滅の試みにおいて、極めて重要な役割を果たしたことを知っている。この試みは、加害者たちが婉曲的に「ユダヤ人問題の最終的解決」(Endlösung der Judenfrage)と呼び、犠牲者たちは「破局」(Sho'ah or Hurban)として経験し、今日、一般に「ホロコースト」として知られている。赤軍によるアウシュビッツの解放(1945年1月27日)以来、様々な国の様々な背景を持つ多くの人々によって行われた法医学的報告や歴史的研究により、アウシュビッツの起源、背景、発展、そして、アウシュビッツがその存在した約57ヶ月の間に、しばしば偶発的な状況や発展する野心の結果として、異なる、一見矛盾した機能を引き受けた方法について、ますます詳細で洗練された理解がなされている。
私自身の作品では、デブラ・ダワークとの10年に渡る共同作業の中で、現場の入念な調査、一次資料、二次調査に基づき、10の機能を区別した33。
1.ドイツの安全保障上のニーズに応えるための強制収容所(1940~45年)
ポーランド陥落後、ヒトラーはポーランドの広大な地域を帝国に編入したが、その中には旧アウシュビッツ公国(上シレジア東部)も含まれていた。ヒトラーは、ハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者に、現地のスラブ人やユダヤ人を占領地(いわゆる総督府)に追放し、リッペンドロップ・モロトフ条約でソ連に約束された領土からドイツ人を移住させて、併合地をドイツ化する任務を課した。ヒムラーは当初、アウシュビッツを、ポーランド人やユダヤ人を排除してドイツ人で埋め尽くされる併合地域の数ある町のひとつと考えていた。しかし、その公式はアウシュビッツでは通用しなかった。ドイツ併合領である上シレジア東部の特殊な人口的・経済的条件のために、ドイツ軍は、隣接する政府総局へのポーランド人の大規模な強制移送を抑圧の手段として用いることができなかった。現地のポーランド人の中には工業に従事している者もいて、彼らに代わる熟練したドイツ民族の労働者がいなかったため、強制移送できなかったのである。そこでSSは1940年にアウシュビッツ郊外に強制収容所を作り、上シレジアの工業地帯に住むポーランド人を恐怖に陥れたのである34。
2.砂利や砂の生産現場(1940~44年)
SSは、子会社のDESt(German Earth and Stone Works)を通じて、1930年代後半から建築資材の生産に深く関わっていた。アウシュビッツは、ソラ川の高品質な砂利と砂で有名で、DEStの生産拠点のひとつとなった35。
3.カトヴィッツのゲシュタポ簡易裁判所の処刑場(1940-44年)
警備、殺害、火葬の施設を提供したアウシュヴィッツは、カトヴィッツのゲシュタポ簡易裁判所で死刑を宣告されたポーランド人の処刑場となった。ゲシュタポ簡易裁判所の命令で収容所で処刑された人々(合計3000人)は、収容所に登録されなかった36。
4.実験農場(1940-45)
アウシュビッツ周辺は、1940年に行われた大規模な民族浄化作戦の対象となった。ヒムラーは、流入するドイツ民族に専門知識と家畜を提供し、ドイツの農業開発を促進するために、強制収容所の労働力を利用して、アウシュビッツに大規模な実験農場を作ることを決定した。収容所はこの新しい機能のためにますます大きな領土を主張し、ヒムラーはその将来が当初の構想とは異なるものになるかもしれないと考え始めていた。強制収容所としては一時的な施設であると考えられていたが、農園としては永続性を主張していたのである37。
5.モノヴィッツのIGファルベン工場建設のための強制労働者プール(1941-45年)
ヒムラーはアウシュビッツをドイツ東部の王冠の中の宝石にしようと考えていた。二重の有刺鉄線フェンスに囲まれた小さな収容所は、15平方マイルに及ぶSSの「利益ゾーン」に成長していた。このゾーンを開発するためには、莫大な資金と建築資材の流入が必要だった。1941年、収容所はヒムラーが巨大化学企業をアウシュビッツに誘致するための手先となった。その条件は、収容所がファルベンの合成ゴム(ブナ)工場を建設するために収容者の労働力を提供するというものだった。その見返りとして、IGファルベンは、ヒムラーのドイツ化計画に資金を提供し、建築資材を供給することになっていたのである38。
6.IGファルベン社の町を建設するための強制労働の場(1941-43年)
ヒムラーは、IGファルベンがニーダー・シレジアのラトヴィッツではなく、上シレジアのアウシュヴィッツに移転するよう説得するために、IGファルベンの経営陣に、従業員を収容する新しい社宅の建設を開始することを約束した。アウシュビッツには10万人のソ連人捕虜が集められ、この都市(再)建設プロジェクトに労働力を提供することになっていた。1942年初頭、約束されていた10万人のソ連軍捕虜が実現しなかったので、ヒムラーはその代わりにユダヤ人を採用することにした。ヒムラーはその時点で、ユダヤ人問題の最終的解決に関する全権を握っており、ドイツが支配するヨーロッパ内のユダヤ人を好きなように処分することができた39。
7.ある種のソ連人捕虜の処刑場(1941~42年)
1941年の夏、SSはドイツ軍と協力して、ソ連兵が収容されている捕虜収容所から様々な種類の囚人(共産主義者の幹部、ユダヤ人など)を分離し始めた。アウシュビッツは、こうした選別された囚人の処刑場のひとつとなったのである40。
8.ユダヤ人の選別と絶滅の場 (1941/2-1944)
1941年の夏から秋にかけて、バルバロッサ作戦をきっかけに大規模なユダヤ人の大量殺戮が始まったとき、アウシュビッツのSSは、ヒムラーの町と地域の開発計画に全面的にコミットしていた。1942年1月にゲーリングがアウシュビッツのソ連軍捕虜をドイツの兵器工場に向かわせたとき、ヒムラーは「アウシュビッツ計画」と呼ばれる文脈の中で、徐々に生まれつつあるユダヤ人問題の最終解決プログラムを組織的に利用することを検討し始めたのである。1942年初頭のヒムラーは、アウシュビッツを自分の人種的ユートピアの中心にすることに、まだ強くこだわっていた。ただ、この計画は、ソ連の捕虜の背中に乗って作られるものではなかった。ユダヤ人奴隷労働者が彼らの代わりになるのである。ヴァンゼー会議によって、ヒムラーはハイドリヒを通じて、ユダヤ人を自分のSS帝国に移送するために、ドイツや外国の民間当局と交渉するのに必要な力を得たのである。労働に適したユダヤ人の最初の輸送は、その後すぐにスロバキアからアウシュヴィッツ・ビルケナウに向けて始まった。スロバキア政府がヒムラーに、現金の支払いと引き換えに労働に適さないユダヤ人も連れて行くことを提案すると、ヒムラーはビルケナウの農民の別荘をガス室に変えることにした。その2ヶ月後の1942年7月4日、スロバキアからのユダヤ人の最初の輸送列車が選別にかけられた。当時、アウシュヴィッツでは、選別されたユダヤ人が殺されていたが、収容所がホロコーストの震源地になることはまだなかった。この時のアウシュビッツの主目的は、(工場、都市、地域の)建設であって、(ユダヤ人の)破壊ではなかったのである。ユダヤ人の組織的な抹殺は、まだ収容所の補助的な機能であった。1942年7月中旬頃、ヒムラーはドイツ国家統合長官としての権限を強め、1年以上前から欲しがっていたロシアへのドイツ人入植の責任を負うことになった。彼のアウシュビッツに対する見方と計画は、急速に、そして劇的に変化していった。「アウシュヴィッツ計画」はもはや彼にとって関心事ではなかった-少なくとも戦争の期間中は。この収容所は、ユダヤ人の組織的な殺戮のために使われる可能性があった。アウシュビッツでは、それまでに確立されていた大量殺戮の習慣が方針となった。収容所の建築家たちは、1942年8月20日に、最初から殺人ガス室を備えた火葬場(4と5)の設計を命じられた41。
9.周辺地域に建設された様々なドイツの工場のための強制労働者のプール(1942-45年)
SSとIGファルベンとの間で結ばれた協定の前例に従い、この収容所は、爆撃の脅威のために西側からアウシュビッツ地区に移された他のドイツの工場の労働力供給源となった。1944年までに、捕虜収容所ビルケナウと27の衛星収容所がこれらの産業に貢献した43。
10.ドイツ帝国で働くために選ばれたユダヤ人のための移送所(1944年)
1944年春、労働者不足に直面したドイツ軍は、ドイツ帝国内にユダヤ人を一切入れないという従来の方針を覆した。ハンガリーのユダヤ人はアウシュビッツに送られ、「働くのに適していない」と見なされた者は従来の方針に従って殺された。「働くのに適している」と見なされた者の多くは、奴隷労働者として帝国内の強制収容所に移送されるまで、一時的に移送されていた44。
これらの異なった機能は、アウシュビッツが非常に複雑な場所であり、もつれた、複雑な、混乱した歴史を持つ場所であったことを示している。ある意味では、アウシュヴィッツの歴史を10個書くことができるだろう。ポーランド人のための強制収容所としてのアウシュヴィッツ、砂利や砂の生産地としてのアウシュヴィッツ、などなど。これらの歴史にはそれぞれ、政治的、制度的、経済的な背景があり、それぞれがサイトに与える独自の空間的影響や、時間的な規則性、変動、危機や変化の時期がある。これらの歴史は、ある時は対立し、ある時は互いに干渉することなく並行し、ある時は通じ合い、収斂し、一体となる。その結果、アウシュビッツの歴史のいかなる側面についても判断を下そうとする歴史家は、しばしば迷宮のような文脈を考慮しなければならない。この文脈は、戦時中に収容所の歴史のある側面が意図的にカモフラージュされていたことや、終戦時にアーカイブやその他の物質的証拠が故意に破壊されたことによって、さらに交渉が難しくなっている。
以下の例は、デブラ・ダワークと私が共同執筆したアウシュビッツに関する本から広範に引用したものであるが、この問題点を示すには十分であろう。先に述べたように、1941年初頭、ビルケナウに収容所(アウシュヴィッツII)を建設するという約束は、ヒムラーとIGファルベン経営陣との間の交渉の道具となっていた。IGファルベンの技術者たちがアウシュビッツを大規模な合成ゴム工場の設立候補地の2つのうちの1つとした時点で、ヒムラーはこの地域に大きな経済的・政治的関心を持っており、工場設立に伴う資金と建築資材の流入によって、上シレジア東部を早期にドイツ化するという自らの計画を実現できると考えたのである。
1941年初頭、ヒムラーは収容所の建設に資源を投入することを急いでいなかった。IGファルベンの経営陣がアウシュビッツに大規模な合成ゴム工場を設立することを決定した時点で、当時は単なる約束に過ぎなかったビルケナウの当面の目的は達成されていた。しかし、その半年後、IGファルベンはヒムラーのハッタリに乗り、ヒムラーは1941年3月1日に交わした約束を果たさざるを得なくなった。ヒムラーは、10万人のソ連軍捕虜を陸軍から自分の親衛隊に移すことを交渉し、ビルケナウに収容所を建設することを命じた。しかし、最終的にアウシュビッツに到着したのは10万人のうち1万人だけだった。1941年12月になると、陸軍との取引は破綻した。
当初、ビルケナウには、SSが仕事に適していると判断した若くて健康なユダヤ人が集められる予定だった。SSはこれらのユダヤ人をスロバキアで探すことにし、1942年2月、ドイツ政府とスロバキア政府はユダヤ人を直ちにアウシュビッツに強制移送することを含む協定を結んだのである。しかし、協定が締結されると、スロバキア人は、若くて健康なユダヤ人が強制移送された後には、「働くのに適さない」幼い人や老人が残されていることに気付いた。彼らを養うことも保護することもできないスロバキア人は、再びアドルフ・アイヒマンというドイツ人に接近したのである。当初、アイヒマンはこの話を拒否していたが、すぐにSSの誰かが、スロバキア政府に強制移送されるユダヤ人1人につき500ライヒスマルクを請求すれば(スロバキア側は強制移送者の所持品を収用することでこの費用を回収できる)、この取引でお金を稼ぐことができると考えたのである。スロバキアはアウシュビッツに近く、もし収容所に何か目立たないカモフラージュのための絶滅設備を設けるのであれば、SSはスロバキアのユダヤ人を全員連れて行き、ビルケナウで選別を行い、働ける者を認め、残りを隣接する森で殺すことができる。
SSがビルケナウで使用する用途が変わるたびに、それぞれのアーカイブと物理的な堆積物が蓄積され、重ね合わされた歴史的な層ができあがり、最終的には、その場所で起きた大虐殺の激動の中で乱されることになったのである。さらに悪いことに、様々な堆積物の沈降速度は同じではなかったため、以前の出来事の最終的な結果は、後の出来事の影響がすでに明らかになった後に現れることもあった。たとえば、小さな赤い家がガス室に変わったのは数日のことであったが、第2、第3火葬場の設計と建設には1年半以上もかかっており、この長い期間にビルケナウの機能は何度も変化した。これらの火葬場の目的の多くは、設計図が完成する前に廃止されていた。
アウシュビッツの歴史家は、「曲がりくねった車線をまっすぐ走ることはできない」というロシアのことわざを忘れてはならない。アウシュヴィッツの歴史の理解に貢献しようとする者は、この場所の歴史的複雑さを説明し、それに立ち向かわなければならない。歴史家のシュリューネスの言葉を借りれば、アウシュビッツへの道が曲がりくねっていたとすれば、アウシュビッツの道も同様であった。このことは、証拠とそれに基づいて出された結論を評価する際には、非常に慎重でなければならないことを意味している。たとえば、アーヴィングは、「旧ソ連の文書館に保管されていたアウシュヴィッツのファイルの中に、アウシュヴィッツの囚人が実際に外部に解放されたことを示す文書が発見されたので」、解放の文書は「極秘の大量絶滅センターの性格とは相容れないと思われる」ので、アウシュヴィッツは絶滅収容所ではないと主張している48。アーヴィングの結論は、次の2つのシラギズム(三段論法)の組み合わせの結果である。
しかし、アウシュヴィッツという言葉が非常に多様で複雑な現実をカバーしているため、アウシュヴィッツに適用されると、この三段論法は誤りとなる。もし、アウシュヴィッツが一箇所にある(極秘の)大量絶滅センターであっただけなら、このような議論は決定的だったかもしれない。しかし、アウシュビッツには様々な場所があり、施設として様々な機能があり、さらに歴史の一部では(極秘の)大量殺戮センターとして機能していた。釈放された囚人の中に、火葬場を運営していたいわゆるゾンダーコマンドが含まれていたとしたら、アーヴィングは一理あると思う。しかし、そうではなかった。実際、釈放された唯一の囚人カテゴリーである「再教育収容者」のカテゴリーには、ユダヤ人は含まれていなかった49。ゾンダーコマンドの多くは、秘密保持のために数カ月の勤務で死刑になった。生き残った数人は、収容所の歴史を締めくくる死の行進から逃れたか、ドイツ崩壊の混乱の中で、(死の行進の後に)西側の受け入れ強制収容所の一般収容者に合流することができたからである50。
アウシュヴィッツの非常に複雑な性質と歴史と、多くの人々がこの収容所を「極秘の大量絶滅センター」としてしか考えていないこととのあいだにある二律背反を考えると、善意の歴史家、生存者、そうでないホロコースト否定論者を含む多くの人々は、しばしば構成の誤謬を犯してしまう:大量絶滅に従事していたアウシュヴィッツの一部の特性から、アウシュヴィッツ全体の特性を推論するのである。否定主義者の好例は、アウシュヴィッツIのいわゆるスイミング・プールである。彼らは、3つの飛び込み台を備えたスイミング・プールの存在は、収容所が実際にはかなり穏やかな場所であったことを示しており、したがって、絶滅の中心地ではありえなかったと主張する。彼らは、プールが消火目的の貯水池として建設されたこと(収容所には消火栓がなかった)、飛び込み台が後から追加されたこと、プールに入れるのはSS隊員と、収容所内で囚人長官として雇われた一部の特権的なアーリア人囚人だけであったことを無視している。プールの存在は、アウシュヴィッツのユダヤ人収容者の状況について何かを語るものではないし、アウシュヴィッツ2世に適切な施設を備えた絶滅計画が存在したことに異議を唱えるものでもない。
アウシュビッツは、アレクサンダー・ポープの言葉を借りれば、「天使が恐れるところに、愚か者が押し寄せる」場所の典型的な例である。迷宮のような歴史とそれに伴う証拠の複雑さは、細部と状況の両方に注意を払う必要がある。ホロコーストを否定する人の中には、アウシュヴィッツの研究が要求する歴史的プロフェッショナリズムのレベルに近づいた人はいない。とりわけデイヴィッド・アーヴィングはそうである。もちろん、その先には、「プロフェッショナリズム」という単純な問題を超えたもう一つの問題がある。それは、アウシュヴィッツを理解しようとする人は誰でも、証拠に直面して謙虚になり、アウシュヴィッツという歴史的現実を真に把握することができない自分たちの無力さに直面して、自信を持ってそうしなければならないという認識である。1946年には、ハンナ・アーレントが『黒い本』の書評で次のように述べている。ハンナ・アーレントは、ナチスがヨーロッパのユダヤ人を破壊したことを記した『黒い本:ユダヤ人に対するナチスの犯罪』の書評の中で、後世の人々が「ホロコースト」と定義することになる歴史を書こうとする試みは失敗に終わるだろうと述べている。
その35年後、哲学者たちは、収容所の世界を把握することができないことにまだ悩んでいた。故アーサー・A・コーエンは、『The Tremendum』(1981年)という短い文章の中で、「思考の性質、つまり忍耐強い熟考と論理的秩序への配慮には、死の収容所の巨大さとは無縁の何かがある」と書いている。『A Theological Interpretation of the Holocaust(ホロコーストの神学的解釈)』(1981年)である。
コーエンの洞察は、ホロコースト全般、特にアウシュビッツを真剣に理解しようとした人ならば、結局は誰にでも当てはまるはずである。エリー・ヴィーゼルは、アイヒマン裁判が終わった後、偶然にも裁判官の一人に会ったと記録しているが、その裁判官は「賢明で明晰な人物で、妥協を許さない性格」であった。
この裁判官が検討しなければならなかった証拠を何年もかけて研究してきたので、彼の意見に同意しないわけにはいかないのである。我々の知識をもってしても、収容所の世界は、我々がそれに迫ろうとするたびに、我々の理解を逃れようとする、後退し続ける地平線を提供し続けている。このことを念頭に置いて、私はこの第一章の終わりに、『アウシュビッツ:1270年から現在まで』の最終章の終わりを提示する。主人公のサラ・グロスマン=ワイルは、私の大切な友人であり、共著者のデボラ・ダワークの叔母である。彼女の証言は、私たちがこの本を書き上げ、完成させることができたかけがえのない贈り物の一つであり、知識と理解の間のギャップを交渉するのに役立った。
サラをはじめ、労働に適していると思われる女性たちが収容所に入ってきた。「私たちが行進していると、反対側の反対方向に、半身裸で頭を剃り、腕を伸ばして行進している女性たちの列が見えました。「食べ物、食べ物。あなたのパンをちょうだい!」。叫ぶ、叫ぶ。私は圧倒されました。私は自分が精神病院にいるのではないか、狂った人しかいない場所にいるのではないかと思いました」この場所は、彼女がいつも小声で聞いていた場所であり、いつも恐怖を感じていた。「アウシュビッツ」と呼ばれていたが、その意味はわからなかった。害虫駆除ステーションに到着した彼らは、登録され、髭を剃り、シャワーを浴びて、布切れと木靴を渡された。
サラはビルケナウに10日間滞在した後、別の輸送列車でツェレの北東18マイルにあるウンターリュスの軍需工場に連れて行かれた。収容されていたのは、ほとんどがハンガリー人女性だった。硫黄はどこにでもあるものだとサラは思い出した。「空気中にも、職場で配給されたパンにも、口にも、目にも、手にも、指にも、すべてが黄色くなっていました。臭いで気分が悪くなった。」
1945年3月、ウンターリュスでの生産は終了した。衛星収容所は閉鎖され、収容者はベルゲン・ベルゼンに送られ、サラは他の何百人もの女性と一緒にバラックに入れられた。「"外では何百人もの女性が 渇き、渇き、また渇きで死んでいた」
陣地のあちこちに死体の山があり、サラは死体を大きな穴に移すよう命じられた。
サラは生き残り、自分の誕生日である4月15日に解放された。
アウシュビッツには死体の山はなかった。火葬場がそれを処理していた。「私は義母と、義妹が小さな女の子を連れて立っていたのですが、誰かが私たちに近づいてきて、『この子をおばあさんにあげなさい』と言いました。そして、義姉はその子を義母に渡しました。彼らは左に行き、私たちは右に行きました。そして、私は『なぜ?義母は小さな子を連れて左に行ってしまったのです。」「左」の意味を知っている人はいないし、「左」に行った人で証言を残した人もいない。フェイゲレとミルカがどのようなルートをたどったかは、奴隷や有志の労働者たちの証言や報告、文書や図面から知ることができるのである。彼らは左に行き、列車の線路を横切り、線路に平行した道路に出て、左の門の建物から右の比較的大きな2つの建物まで走っていた。SS隊員は彼らに、2つの建物に向かって右に曲がるように指示した。500ヤード先にいた別のSS隊員は、左に曲がって、四角い煙突を持つ2つの同じレンガ造りの建物の1つを囲む敷地に入るように言った。彼らは煙突の下にある大きな入り口には行かず、建物を通り過ぎ、その先にある70ヤードのテラスを歩いた。舗装されたアスファルトの端で左に急旋回し、階段を降りると地下室に通じるドアがあるという。
1995年の現在、その地下空間と直角につながっている部屋は、草が生い茂った浅い穴になっている。1944年、当初は死体安置室として設計されたこの場所は、フェイゲレとミルカがユダヤ人であることが判明したことに始まり、ウッチ・ゲットーへの投獄、アウシュビッツへの強制移送、駅での選別に至るまでの破壊プロセスの最後の段階となった。1939年に家と金融資産を奪われ、4年間のゲットー生活でほとんどの財産を奪われ、アウシュビッツ収容所ではスーツケースを奪われた彼らは、最後の持ち物である着ている服を引き渡すことになった。彼らが入った地下室は脱衣所になっていた。
あの地下室に入った数十万人のうち、生き残ったのはごくわずかだった。そのうちの1人がフィリップ・ミュラーだった。「地下室の入り口には看板があり、そこには数カ国語で方向が書かれていた。浴場と消毒室へ」。脱衣所の天井はコンクリートの柱で支えられており、そこにはさらに多くの掲示物が固定されていた。これもまた、無防備な人々に、間近に迫った消毒作業が健康にとって極めて重要であると信じさせることを目的としたものだった。「清潔は自由をもたらす」「一匹のシラミがあなたを殺すかもしれない」などのスローガンは、1.50メートルの高さに固定された番号付きの洗濯物用フックと同様に、人々を欺くためのものであった。
フェイゲレとミルカをはじめ、それまでドイツの虐待を生き延びてきたユダヤ人たちは、服を脱ぐように言われて、小さな前庭に集められた。誰かが右手を指して、先ほどの部屋に似た長方形の白壁の部屋の扉を示した。しかし、フィリップ・ミュラーが知っていたように、2つの部屋には目に見える重要な違いと、それ以上に目に見えない重要な違いがあった。「部屋の長さ方向には、コンクリートの柱が天井を支えています。しかし、すべての柱がその役割を果たしているわけではありません。板金製の中空の柱に開けられた穴から、チクロンBのガス結晶が投入されました。 一定の間隔で穴が開いていて、その中には、粒状の結晶ができるだけ均等に分布するように、上から下に向かって螺旋が走っています。天井には、金属製の大量のダミーシャワーが取り付けられていました。これは、ガス室に入った不審者に、シャワー室にいると錯覚させるためのものでした」フェイグレやミルカたちが詰め込まれ、扉が閉じられ、照明が消された。
フェイゲレとミルカが地下の部屋に連れて行かれている間に、赤十字の看板をつけたバンが地上から1.5フィートの高さにある側面に沿って駐車していた。人の「消毒作業員」がデゲシュ社製の密封缶を持って、地下室の屋根に登ってきた。二人はタバコを吸いながらのんびりと話をしていた。そして、合図とともに、それぞれが高さ1フィートのコンクリート製シャフトまで歩いて行き、ガスマスクを着用し、蓋を取って缶を開け、豆粒大の中身をシャフトの中に流し込んだ。蓋を閉め、マスクを外して車で出発した。
ミュラーは少し離れたところからすべてを目撃した。「しばらくすると、鋭い悲鳴が聞こえ、ドアを叩き、うめき声や泣き声も聞こえてきました。人々は咳をし始めました。これはガスが効き始めた証拠です。その後、騒ぎはおさまって、時折、咳でかき消されるような多くの声の鈍いガラガラ声に変わっていきました」10分後、すべてが静かになった。
SSの男がミュラーと他の決死隊員たちにエレベーターで地下に降りるように命じた。そこで、彼らは換気装置が部屋からガスを抽出するのを待ち、約20分後に、ガス室のドアのボルトを外した。簡単に死ねるからチクロンBを殺人剤として採用したというヘスの主張とは裏腹に、犠牲者たちには凄まじい闘争の跡が見られた。
ここはドイツ人がフィーゲレやミルカをはじめとする無数の人間を殺した場所であり、その方法である。アウシュビッツに到着して数時間後には、煙と灰と我々の記憶以外にユダヤ人の姿は残っていなかった。彼らの遺体は、ミュラーが地下に降りるときに使ったのと同じエレベーターで1階に運ばれ、火葬場の中央にある3つのマッフルを持つ5つの焼却炉の1つで火葬された。
今日、私たちはフィーゲレとミルカがどこで死んだかを知っている。ドイツ人がずっとアウシュビッツと呼んでいた町である。1270年にドイツ人がこの町を建設し、1457年にポーランド人の王が購入したことが分かっている。ポーランドの支配下で町が衰退したことも知っている。19世紀には主要な鉄道路線に沿ってささやかな存在であったことも知っている。1920年代、この地域がドイツ人の怒りの対象となったことも知っている。1939年に国家社会主義者がこの町を帝国に併合したことも知っている。彼らは、中世の取り組みを繰り返すつもりだったことを知っている。
今日、私たちが知っているのは、フェイゲレとミルカが、元々は労働交換所として作られた収容所で亡くなったこと、その後ポーランド軍の基地として使われたこと、そしてドイツ軍が、国外追放するには便利すぎる地元住民を恐怖に陥れるために強制収容所に変えたことである。収容所は、砂と砂利の生産地、カトヴィッツのゲシュタポの処刑場、ドイツ民族の転入者を支援するための大規模な農地の中心、合成ゴム工場とニュータウンを建設するための労働力の供給源など、次々と機能を獲得していったことが分かっている。アウシュビッツは、このような変化の中でも、かつてドイツ人が居住していたこの地域で、ドイツの歴史を取り戻すというヒムラーの野望の中心であり続けたことがわかっている。アウシュビッツは、ヒムラーがこの町や地域に興味を失ってからは、絶滅の中心地となり、地域の様々な産業に奉仕するための衛星収容所ネットワークの中心となり、最終的には再び労働力の交換所となったが、今回の労働者はユダヤ人奴隷であった。
今日では、誰がこの建物を設計したかがわかっている。ゲオルク・ヴェルクマン、カール・ビショフ、ワルテル・デジャコ。炉を作ったのは、エアフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社である。エアフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社の炉を作ったのは誰なのか、炎を吹き上げる強制空気システムのパワー(毎時400万立方フィート以上)は誰なのか。1日1マッフルあたりの公式火葬能力(32体)もわかっている。大きな死体安置所を脱衣所に、小さな死体安置所をガス室に変更する決定を下したのがビショフであったことも知っている。デジャコが死体安置室を死の部屋に変える計画を立案したことも知っている。ガス室からチクロンBを20分で抽出するためには7馬力が必要であるという、大量殺戮の現場として部屋を稼動させるための換気システムの仕様も知っている。この建物は1943年3月13日に稼働し、1,492人の女性、子供、老人がガス処刑されたことがわかっている。私たちは、ドイツ人がすべてを思い通りにするのに苦労したことを知っている。誰がいくら払ったのか、ということもわかっている。
私たちはそのことをすべて知っている。しかし、この「死の機械」の中心となる多くの問題については、ほとんど何もわかっていない。この地域の歴史、町の将来像、収容所の開発、火葬場の設計変更などの研究は有用であるが、アウシュビッツのホロコーストのすべてを語るものではない。犠牲者と生存者の疑問が大きく立ちはだかるのである。
1944年8月、アウシュビッツに到着したサラ・グロスマンが選別に直面したとき。
「ガス室、火葬場、何とでも言えます」 半世紀後、サラ・グロスマンは正確ではなかった。重要なのは、男性と女性が分けられていたこと、祖母のフェイゲレと幼い娘のミルカが左に、思春期のレジーナと2人の義姉のエステルとサラが右に行ったことだった。そして彼女は正しい。この選別のプロセスこそが、ホロコーストの恐怖の核心であり、道徳的な頂点なのであり、ガス室や火葬場ではなく、選別なのである。ドイツ人とその同盟国は、誰が生き、誰が死ぬかを決める権限を自分たちに与えていたのである。ハンナ・アーレントはアイヒマンを非難し、「まるで、あなたとあなたの上司が、誰が世界に住むべきで、誰が住むべきでないかを決定する権利を持っているかのように」と述べている。
ミルカやサラをはじめとする何十万人もの被曝者が、医師の選定のために並んでいた。彼が一人で仕事をしていれば、ほとんど害はなかっただろう。しかし、彼はそうしなかった。彼の仕事は、思想家が構想し、官僚が組織し、実業家が資金を提供し、技術者がサービスを提供し、一般人が運営するシステムのごく一部に過ぎなかった。そして、何百万人ものドイツ人に支えられていた。
そして、サラの疑問が残る。「そして、私は「なぜ?」と言った」54
▲翻訳終了▲
思ってたよりもずっとこのレポートは長くて、五章あるうちの一章目の半分で第一回目は終わりとします。これだけで約34,000字もあります。色々と濃い内容の話が続きましたが、しかし、本論にはまだ入ってないようです。アウシュヴィッツのガス室について、どのように証明されるのかについては次回以降のどこに書いてあるのでしょうね。
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