小野正嗣『九年前の祈り』
小野正嗣『九年前の祈り』(講談社)
第152回芥川賞受賞作。
たたかう読書が続いていました。久しぶりのかわいい読書です。装丁のかわいさは、ぜひ書店でお確かめ下さい(笑)
小野正嗣『九年前の祈り』は、北海道の田舎から出てきたわたしにとってはどこか懐かしい気持ちになりながら読み進めた物語だった。九州地方の海辺の集落を舞台に、東京から幼い息子を連れて出戻りした主人公・さなえの心情が描かれている。
幼い息子の名前は「希敏(けびん)」。彼はさなえとカナダ人の元夫・フレデリックとの間に生まれたハーフである。観光客もほとんどいない田舎で「ガイコツ人」はとにかく目立つ。そのうえ離婚して出戻りした娘に対して、世間体を気にする両親は良い顔をしない。東京暮らしの頃よりも金銭的負担が少なく、たまに息子の面倒を見てくれる両親もいて穏やかな環境であるはずなのに、さなえは日々追い詰められていた。
「このむさくるしい男が誰だか知らないが。しかし男のほうは明らかにさなえを知っていた。さなえがカナダ人と結婚したことも、そのカナダ人とのあいだに男の子が生まれたことも、そしてさなえがそのカナダ人に捨てられて、男の子を連れて実家に戻ってきたこともすべて知っていた。
いや、さなえだって知っている。昔の面影がなくなって陰気くさくなっただの、東京の言葉しか喋らなくて気取っているだのと町の人たちから言われているのは承知している。」(38頁)
息子の希敏は元夫のフレデリックに似た端正な顔立ちをしているが、離婚してさなえと二人暮らしになってから、突如スイッチが入ったように泣き叫び暴れるようになった。まるで「引きちぎられたミミズ」のようになってしまい、こうなると誰があやしても泣き止まない希敏に両親はとまどい、さなえの躾がなっていないと責める。母親は現実主義者でもあり、さなえの感情的な行動にいつも反論し、失敗すれば「ほーらみい」と得意げにさなえを責めるのだ。さなえは内からじりじりと責める母親と突如引きちぎられたミミズになる息子に挟まれストレスの捌け口の無い環境下にあるが、出戻りしてきた以上居心地の悪さを受け入れるしかなく我慢の日々が続いている。
物語は九年前に有志でカナダ旅行に行った時の知り合い「みっちゃん姉」の息子が入院していると母から聞くところから始まり、その後お見舞いの品に離島の貝殻を集めにいく為に希敏と二人で出かけていく。離島に向かう船の中で、さなえはうとうとしてみっちゃん姉たちと行ったカナダ旅行の思い出と現実の風景を混ぜこぜにしながら、九年前のみっちゃん姉の姿を思い出す。
途中はぐれてしまったメンバーのために通りすがりの教会で祈り続けていたみっちゃん姉の祈りの姿を思い出し、真似て祈るさなえの心には懺悔や愚痴のような感情ばかりが渦巻いてしまうのだった…。
この物語は現実の風景と心象風景がいつの間にか混ぜこぜになっていく特徴的な文体で、田舎特有の「狭さ」を的確にあらわしている。小さな集落であればあるほど噂話はすぐに広がり、見知らぬ人などいない環境でさなえのある意味で反社会的な行動はどうしても目立ってしまうのだ。現実的で保守的な両親への反抗心を抱きながら結局は頼らざるを得なかった、そんなさなえのふがいなさを象徴するのが息子の希敏であり、毎日自分のふがいなさと直面する辛さにもがき苦しんでいるのだろう。
素直な感想を述べると、この物語を男の人が書いているということに驚いた。生みの苦しみを知らない、子育ての辛さを知らないということでは独身女性も同じだけれど、主人公さなえが追い込まれていく過程や心情をここまで鋭く書くことができる男の人がいるとは思わなかった。
『九年前の祈り』には、表題作のほかに「ウミガメの夜」「お見舞い」「悪の花」の三編が収録されている。どの物語も海辺の集落を舞台としており、田舎の「狭さ」をより感じられる。
主に電車内で読んだが、現実と夢(のような回想)とが入り混じるこの物語のように、気がつくと目をとじている…ということが頻発して読了にやや時間がかかったけれど、感情の移ろいを丁寧に綴った、嫌味の無い物語だと思った。