
人間の〈有限性〉を超えた瞬間
はじめに
1月1日に起きた能登半島地震において、生死の狭間の緊迫した状況の中で、私は人間の有限性を超えた瞬間を目撃したように感じました。
日本での状況はインターネットでもライブ放送されていましたので、私はNHKの放送通じてコンピューターの画面に釘付けになっていました。
有限性を突き抜ける「いのちの声」
その時NHKのアナウンサーが絶叫するように津波から避難することを大きな声で呼びかけていたのです。
通常国営放送のアナウンサーは、感情を前面に出さず、落ち着いてニュースの原稿を読み上げるイメージが強くありますが、このように人の生命に関わる重大事案の時は、それこそ人間らしさが押し出されてくるんだと感じました。
このNHKのアナウンサーの真剣な「いのちの呼びかけ」に対して、実際に背中を押されたように避難行動をとった人は非常に多かったのではないかと思います。
そもそも人間は認知バイアスがあったり、原理的に自分の主観の外に出られない限界性があるため、自分の思い込みを正当化してしまいがちな傾向があります。したがって、ひょっとしたら、地域住民の中には「逃げなくても大丈夫だろう」と勝手に判断していた人もいたかもしれません。
しかし、こうしたNHKのアナウンサーの「常軌を逸した叫び」によって、多くの人たちが、まるで背中を押されたかのように避難行動に走ったのではないでしょうか?
人間の認識の有限性の限界を突き抜けた瞬間だと思いました。
言葉の身体性
私はオーストラリアで日々学校教育に携わっていますが、人間の言葉は情報を伝達するだけでなく、ある種の身体性を持っていると感じています。つまり、物理的に相手の身体に触れていなくても、心の底から相手に投げかける言葉と言うのは、まるで相手の身体に触れているかのように感じられる時があるのです。
特に小さい子供たちを観察していると、単に情報を相手に伝達しようと思って言葉を使っている場面だけでなく、言葉を使いながらも、まるでお互いに身体が触れ合っているかのような印象を受ける場面が多く見られます。極端な話、その言葉自体は全く意味を持っていなくても、お互いに大きな声を発することによって、お互いの身体性を確認しあってるようなそんな場面が多々あるのです。
話を今回の能登半島地震のニュースに戻すと、 NHKのアナウンサーからの心の底からの叫び声は、身体性を持ち、それ故、テレビを見ていた地域住民の背中を押す形になったのではないかと感じています。
「わかりあえない」をのりこえる
私も含めて、私たち現代人の多くは、お互いにわかりあえない苦しみを何らかの形で日々味わっています。自分の言葉が相手に届かない相手の言葉がこちらに届いてこない。このような体験をした事は私だけではないはずです。それはまるでお互いがバラバラに存在し、個々の枠の中で寂しく愚痴っているような感覚です。
しかしながら、今回のNHKのアナウンサーのように、それこそ魂の叫び、声を相手に向けると、相手もその言葉を受けざるを得ないというか、それに応えざるを得ないような状況になるのではないかと感じました。
おわりに
もちろん今回の地震のように生死に関わる緊迫した状況だからこそ、アナウンサーの言葉が相手に届いたと言うこともあるでしょうが、そうした緊迫した状況でなくても、魂のこもった言葉を相手に向けて、お互いの限界性の枠を超えた深い交流を少しでもしていきたいなと思いました。
皆さんはどう思われますか?
今回の内容のエッセンスをまとめた1分程度の動画を作成しましたので、もしよろしければご覧ください。
野中恒宏