意識の中にある「確信の三角形」- 全人類が持つ共通了解の土台
私たちは、物事をどのように知覚したり、認識したりするのでしょうか。
「何を難しいこと言って。そんなことどうだっていいじゃない。哲学者が考えてればいいじゃん」
と言う声が聞こえてきそうです。しかし、これは哲学の世界だけで重要なわけではなく、誰にとっても、重要な観点を含んでいる問いだと思うのです。
どういうことかと言うと、私たちが日常生活の中で、もし共通なものを知覚したり認識できなかったとしたら、私たちの生活は誤解や対立や排除や差別や戦いに満ちた、それこそ「万人のための万人の戦争」の毎日になってしまうと思うのです。
しかし、私たちの生活経験の中で、他の人と理解しあったり、共通の認識を持った経験は誰でもあると思います。そうすると、なぜ私たちは共通の認識を持つことができるのだろうかと言う疑問も湧いてくるのではないでしょうか? その仕組みがわかったら、もっとお互いを理解できるようになるんじゃないかと思ったりするのです。
このように、私たちがどのように物事を知覚したり、認識したりするかは、誰にとっても大切な内容を含んでいると思います。
ここで一気に、現時点での私の中の確信めいた結論をシェアしますと、以下のようになります。
人間は、物事を個別に知覚したり認識したりしているだけでなく、同時にその物事の本質も直観していると言うこと。さらには、そうした個別の知覚•認識と本質の直観には密接に人間の情動も関わっていると言うことです。
ちょっと抽象的なので、具体的な例を挙げますと、目の前に🍎があったと仮定すると、自分の心の中にまず「このリンゴ」という知覚が沸き起こってきます。しかし、これは同時に「りんご」という目の前の物体の本質も直観していると言うことです(りんごの本質を言語化できるかどうかは人による)。もし、「りんご」という本質が直観できていなかったら、目の前の物体が何であるか全く認識できなかったり、気がつかなかったりしてしまうでしょう。
そして、目の前にはひょっとしたら、りんご以外にも、しょうゆとか、お皿とか、お箸とか、スプーンとかテーブルとか、他のものがあるかもしれません。しかし、そうした他のものをではなく、りんごを知覚したということは、そこには同時に「りんご食べたい」とか、「りんごが綺麗だから描いてみたい」などの情動も存在していると言うことです。
さらに理解を進めるために、もう一つだけ例を言うと、目の前に水があった場合、まずは「この水」が知覚されます。しかし、それは同時に「水」と言う本質を直観しています(もし水の本質が直観されなかったら、目の前の液体が何であるかわからないでしょう)。さらには、その水を「飲みたい」「手を洗いたい」などの情報も同時に存在していると言うわけです。
図にするとこんな感じになるでしょうか。
これは自分の意識の中に「確信をもたらす三角形」と呼ばれているです。もちろん、これは私のオリジナルではなく、私が今現象学を学ばせていただいている苫野一徳氏に教わった内容です。
簡単に言うと、私たちの意識の中には、こうした共通した構造があるからこそ、私たちは共通了解ができると言うわけです。
「そんなめんどくさいこと言わずに、意識の外で共通了解を取っていけばいいんじゃないか」
と言う声も聞こえてきそうですが、実際、歴史の中で人間は自分の意識の外に客観的な実在があり、それに到達できると思ってきました。しかし、哲学者カントたちの指摘によって、それは原理的に無理であると言う事が確定してしまったのです。すなわち、簡単に言えば、人間は、人間の主観というOSの外に出ることができないので、認識や知覚には限界があり、100%の客観性には到達する事は永遠にありえないということなのです。
したがって、まずは意識の中に現れた事を「思考の出発点」にして、その後、対話や検証を他者と重ねていき、可能な限り全員の合意できるような共通了解を編み上げていくというのが、唯一の賢明な方向ようなのです。言い方を考えると、みんなで普遍性を創りあげていくという考え方です。
ちなみに、ちょっと哲学的な話になるのですが、現象学の世界においては、実は初めから、この三角形があったわけではなく、元は現象学のフッサール氏が個的直観(知覚)と本質直観(意味)の2つの構造を主に指摘していました。しかし、日本の哲学者である竹田青嗣氏が情動(欲望関心)も、人間の意識の中の知覚認識の共通構造として指摘し、この三角形の考え方が生まれてきたようです。
すなわち、フッサール氏の個的直観(知覚)と本質直観(意味)に基づいた本質観取から、竹田青嗣氏の欲望論に基づいた情動所与(欲望)も加えた本質洞察へと現象学は発展していったのです。前者の意識を純粋意識、後者を現前意識というそうです。
これは、素晴らしい発展だと個人的に思っています。私の考えでは、もし純粋意識だけで、物事を捉えているとしたら、私たちが日常生活の中で体験している価値や意味の問題を扱えなくなってしまいます。しかし、情動の観点を加えたことによって、価値や意味の世界を生きる私たちに共通了解の土台をもたらしたと言えるのではないでしょうか。
現象学は、対立•分断•排除が進む今日の世界において、すべての方に生き方や認識の土台を提示している確信しています。
しかし、それはあくまで私の確信であり、絶対的な真理ではなく、皆さんの確信でもないと思います。したがって、これも広く対話のテーブルで、共通了解が取れる所まで話し合っていく必要があるんだと思います。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏