根が明るい、というか、根がポップなのだ(前編)
先日、Xで一年以上前のポストが急に知らない人にリポストされた。
その内容がこちら。
リポストした人はベボベ(Base Ball Bear)のファンのようだった。
最近、体調が悪い日が多かったり、すべてのことが思うようにいかない感じがしていたけど、この自分のポストを改めて見て、そういえば私って根がポップだったんだっけ! と思い出した。
私の思う「ポップ」というのは、明るさや楽しさ、軽やかさみたいなもの。
最近の私に足りないのはポップさだ……!
そう気づいて、今までの人生を振り返ってみると、いくつもポップなエピソードが思い出されたので、今後ポップさをなくしそうなときのために文章にしていつでも読み返せるようにしておこうと思う。
十二歳ごろの話から始めよう。それにはまず、暗い話をするしかない。
私は小学六年生のときに同居していた祖父を亡くした。そして、その祖父のお通夜の日から原因不明の吐き気に見舞われるようになった。
あとから分かったのだが、私は不安障害になってしまったのだ。
その後、「感受性が強すぎる」と何人もの医師に言われた私。同居している家族が死ぬのは初めてだったから、ショックが大きかったのだろうと思う。
毎日のように襲ってくる謎の吐き気。しかも、私は吐くことが異常に怖くて(嘔吐恐怖というらしい)、吐き気に襲われるたびに死ぬほど怖くて大騒ぎしていた(でも実際に吐くことはなかった)。
そんな中で、親友だった子に急にひどい悪口を言われるようになった。いじめとは言えない程度だったけど、親友と彼女の新しい友達による悪口とクスクス笑いは傷つくには十分な嫌がらせだった。裏切られたと思った。
私も彼女も、同級生の間では有名なジャニオタで、同じレベルでジャニーズの話ができるのはこの子だけだった。
嫌がらせを受けてから、私はジャニーズを見るたびに彼女を思い出してしまうせいで大好きなジャニーズを一切見られなくなってしまった(大人になって、彼女の存在が薄れて、ジャニオタに復帰するまでには15年以上の年月がかかった)。
親友が親友でなくなったことがつらかったのはもちろん、ジャニーズを見られなくなってしまったことと、もう私と彼女が親友ではないことを同級生や家族に知られることが恥ずかしかった。
周りに気づかれないように、まあまあ仲が良かった子たちと遊ぶようになった。ただ、もう心は開けなくなっていて、人間不信のような状態だった。
そして、私は不登校になった。
ああ、なんて暗い話! ポップさのかけらもない。
そして、中学に入学しても、私は教室に行くことはできなかった。いや、気が向いたときに3回くらい顔を出してみたことがあったかな。3年間で、3回。で、行く度に行かなきゃよかったと後悔した。
基本的には保健室登校で、好きな時間に登校して、数時間で下校した。
同級生の保健室登校の子がもう一人いて、適当な中身のないおしゃべりをするのが楽しかったし、私は毎月購読していたピチレモンと映画雑誌のロードショーを持参して読んだりもしていた。
ここで私のポップなところが発揮される。ピチレモンの読者モデルに応募したのだ。教室にすらいけない保健室登校なのに!
もともと、子供のころからアイドルになりたかった私は、オーディション雑誌も何度か買ったことがあったけど、実際に応募したことはなかった。
不安障害になり、アイドルになることはほぼあきらめていたのだけど、有名になりたいというか、特別になりたいというか、そういう欲はまだあって、読者モデルならばできるのでは? と思ってしまったのだ。読者モデルって、いわばセミプロだからいけるんじゃね? みたいな。甘い、甘すぎるぞ中学時代の私。
結果は書類審査で落選。まあ、そうだよね。それ以降、体調がより悪化したこともあり、オーディション的なものに応募することはなかった。
しかし、中学の生徒会選挙には立候補した。教室にすら行けない保健室登校なのに! (二回目)
なんというか、そもそも私、学校が好きなのだ。学校に行きたくないから保健室登校だったわけではなく、あくまで体調が悪くて通えないから通わなかっただけで。
だからこそ、行きたいのに行けないっていう状況がめちゃくちゃしんどかった。でも、楽しい学校生活をあきらめたくはなかった。
で、選挙に出ちゃった。行動力があるところは私の長所であり、短所でもある。思いついたらやらずにはいられないのだ。
ところで、私は何の委員に立候補したんでしょうか? 正解は、保健委員です!
「ずっと保健室にいるので、保健室のことは誰よりも知っています」とアピールしたものの、落選。そりゃそうだ。
そして、高校に入学する。
相変わらず人間不信気味で、病院の診察やカウンセリングでも上辺だけの会話しかできず、体調がよくなる兆しはなかった。
それでも、中学生活がひどかった分、高校生活には人一倍、いや、人の五〇〇倍くらい期待をしていた。ちょうど女子高生ブームみたいなものがあった時代だったし、女子高生に憧れていた。
高校受験をして、第一志望には落ちたものの、滑り止めの二校には合格した。二校はどちらも偏差値の低い女子高だったのだけど、地元でお嬢様学校と呼ばれているほうに入学した。箔がつくからね、お嬢様学校。
実際は、私みたいにお嬢様ではない人がほとんどだけど、付属の中学から来ている人たちの中には社長の娘やら医者の娘やらといったお嬢様もいるようだった。
が、楽しい女子高生生活を送れるわけもなく、最初こそ頑張ってみたものの、入学一か月後には体調が悪化。
授業中に吐き気に襲われ、「保健室に行ってもいいですか」と先生に伝え、ひとりで三階の教室から一階の保健室へと向かった。
保健室のドアを開け、「気分が悪いので休ませてください」と告げると、保健の先生は目を丸くして「まず、血止めなくちゃ」と言った。
すぐには何のことかわからなかったのだが、私は左腕から流血していたのだ。教室から保健室までの間、吐き気に耐えるようにして肘の内側辺りを搔きむしっていたらしい。この時、もう私はダメだろうな、と悟った。
それからほどなくして不登校になり、通信制高校へ転校することになった。
憧れの女子高生になれなかったことで、私の人生に楽しいことはもう何も無い、私の人生もう終わった……と本気で思っていた。人生で一番絶望していて、体調が悪かった。病院に行くことさえ難しいときもあり、家に引きこもって、死ぬことばかり考えていた。
死にたいけど失敗したら嫌だから、高いところから飛び降りるか、電車に飛び込むかだな、とぼんやり思っていた。
死ぬことばかり考えていたから、いつか突発的に自殺して死ぬだろうと思っていたけれど、田舎町で引きこもりをしていた私にとって、高い建物も電車の通る線路も遠すぎて、突発的に死ぬことはできなかった。
すぐ吐き気に襲われるせいでコンビニにすら行けなくて、欲しいものは通販で買い、髪は自分で適当に切った。
前髪を横のほうまで短く切りすぎて、いとうせいこうみたいになったときは情けなくて泣いてしまった。
それでも、私は根がポップなので、好きなものはあきらめなかった。当時の私が好きだったもの、それはSWIMMERの雑貨である。
もともと近くの雑貨屋でSWIMMERの取り扱いがあり、そのレトロで可愛いデザインと手頃な値段に惹かれて中学時代からよく購入していた。
その雑貨屋が閉店し、市内だけど少し離れた雑貨屋に行くしかなくなったけれど、SWIMMERは当時毎週新商品が発売されていたため、母の車で週に一度新商品チェックのために雑貨屋に通った。
雑貨屋のレジでも吐き気に襲われるのだが、それでも私はSWIMMERが買いたかった。死ぬかも(吐くかも)と思いながらでもSWIMMERを手に入れたかった。それくらい好きだった。
引きこもりの私にとって、この雑貨屋に行くことが唯一の外出だった。
後編につづく……
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