役割と充足感。
こんにちは、イラストレーターのマルオです。
今日は、「役割と充足感」について
書いてみたいと思います。
前にも一度チラッと書きましたが、
人は「役割」を与え合って
(あるいは押しつけあって)
生きていると。
そうやって共通の幻想の中で
役割を演じあって社会を継続して
成立させ続けてきて現在があるのだと。
個人的な意見を書きますが
私は外から「役割」をあてがわれるのが
とても苦手な方だと思います。
多分、企業で働いている方や
大勢の中で働いている方は
その中での「役割」があることが
当たり前で生きているかなと。
そして、そこに「存在意義」や
「役に立つ喜び」を感じたりするのかな、
と想像します。
どちらが良い悪いじゃなくてね。
状況的に、フリーランスというのは
自分の役割は流動的であり
どのように役割を担うかは
場合によって大きく変わったり
ある程度自分で選んだりもできるから。
そのゆるっとした枠の中で
選択できるものであることで
楽しんでやれているのかなと。
向き不向き、得意不得意、
できる、できないは誰にでもあるから、
自分はこういう感じかもなぁ、とただ知る
って大事だと思います。
さて話を戻しますと。
「役割」を担う、
もしくは誰かに「役割」をあてがう、
というのは、喜びになる人もいれば
窮屈な枠と感じる人もいます。
役割をこなしてこそ
社会で生きる一人前の人間だ、
という意見もあるでしょうし
あてがわれた役割に
我慢ならなくて
逃げ出したくなる人もいるでしょう。
そもそも前提として
「社会人とは、大人とは、
そういうものである。」
といったん認識してしまうと
もはや「役割とは?」だなんて
考えたこともない、という人も
たくさんいるかと思います。
当たり前とされていることを
改めて考えてみる、問い直してみる
ということをしてみると、
世の中を新しい枠組みで
捉えられるのかなと。
役割については、
自分の中に何か他の
「これ!」というものがある場合、
外側から渡された「役割」と齟齬が生じて
苦しくなるのかなと思います。
例えば、
「お母さんだから」「奥さんだから」
「大人なんだから」
「アナタそういう役職なんだから」…
やって当然でしょ、という感じ。
私の場合ですが、
基本的に自分自身は「私」である
という感覚以外はないものだから
いろいろなものを載せられて期待されると
結構苦しいわけです。
(日常、プライベートでよくありますね、本当に。)
みんながそれを当たり前にしていても。
自分はそこはちょっと違うように
感じるな〜、って自分自身をちゃんと
わかっていてあげることが大事かなと。
どんな自分であることが
一番の喜びであり、
自然体でしっくりくる感覚でいられるのか。
そこに何か「役割」を担っている状態は必要なのか?
一度考えてみてもいいのかなと思います。
私自身のしっくりくる感じとは
ちょっと違うけれども、
誰かのための、何かのための
役割をこなすことが
自己価値、存在意義となっている場合も
それはそれで良いのかなと。
ただ、その考え方に縛られて
「こうでなければ、この役割をこなさなければ
自分は存在価値がない」みたいに思ってしまうと
きっと苦しいですね。
役割と、充足感はセットになりやすいけれど
役割に自己充足感を全て載せると
結構苦しいかもね、という結論です。
何の役割もこなさずとも
自分が楽しいことをただ追求してもよくて
いや、むしろそれによって
純粋な内側の充足感と
出会えるのかもしれません。
今日は「役割」について考えてみました。
言葉の意味を問い直し、
世界を再定義するのは面白いですね。
当たり前を捉え直すと
目の前のことが違ったものに見えて
また違う解釈で世界が広がりますね。
日々そんなことをするのを楽しんで、
世の中を眺めて生きています。
今日はこの辺りで!
お読みくださりありがとうございます^^