ガッコーのセンセーの日記。2020年5月1日。
こんばんは。しめじです。
今夜は、今日あった出来事を二つ。
1 久々にクラスの人たちとコミュニケーションをとった話。
Google meetでホームルーム(朝の会みたいなもの)を行ないました。
残念ながら数名寝坊、数名は申し訳ないことに回線の調子が悪くて接続できず不参加でしたが、久々に生徒の顔を見ました。
何せ、こちらは異動してきたばかり。しかも三年生担任です。
勝負の一年になる期間を伴走する担任が、知らない人で、しかもほとんど会っていない(登校は二日間のみです)し顔もわからない(マスクしてますからね)というのも、生徒からすればどうなのだろう、と思う部分もあるわけです。その中で、ビデオでのホームルームは互いに顔を見られるので、それはとてもいいことかなと思いました。
GWが明けると面談も始まります。
生徒のことをこちらが知るのが当然主目的ですが、私の場合ははじめまして。まずは自己開示から。別に生徒の話を遮ってまで自分の話をすることはないですが、聞かれたら隠さないくらいのスタンスではいようと思います。
それはそうと、その中でとても驚くことがありました。
通信が始まった途端、何人かの生徒から、
「せんせーおはよー」「朝ごはん何食べたのー」「先生何時起きー?」と質問攻めに。
去年まで工業高校にいたので、こういう距離感で生徒に来られることもありませんでしたし、こちらもそういう感じで生徒との距離を詰めることは稀。
ちょっと面食らってしまいました。
一瞬、工業高校にいたときの癖で「どんな口の利き方やねん」と言いそうになりましたが、多分ここでは違うんだろうと思ったので我慢。しばらくすれば慣れるでしょう。むしろ、来たばかりの担任に対してそうやってコミュニケーションをとってみようとしてくれる生徒に感謝です。
とにかく、面食らってしまい、通信が終了してから一人で笑ってしまいました。生徒の言動に愉快になって(馬鹿にしているわけではないです)笑う、よく考えたら本当に久々だなあとしみじみしてしまいました。
2 ICT教育についてのオンラインセミナーに参加した話。
今日の午後はお休みをいただき、通信授業についてのセミナーに参加しました。
他の現場での実践例は大変参考になりました。いくつか、自分が感じていた課題に対する具体的な解答も得ることができました。
限られた予算、限られた資源でも、なんとか学習を保障していかなければならないのはどこも一緒。
「ものがない」「かねがない」「ひとがない」の言葉で片付けられてしまって中々進まず、もやもやする人も(私含め)多い状況だろうとは思いますが、もちろん不平を言っても事態は好転しませんから、一つずつ、可能なことをしっかりやっていこうと改めて思いました。
ただ、私がいくつか考え込んでいる疑問(課題? 論点?)のうち、ひとつだけ、どうしてもすっきりと解決しなかったことが。
通信環境が家庭で整えられず、全員が同じような通信授業を受けられない中で、それでも通信で授業を始めることの是非です。
やはり、このテーマについては、「より格差が」という声を良く聞きます。
それに、公立学校という社会的公共インフラである以上、その直接的な受益者(生徒ですね)の家庭状況、経済事情、生活環境に関わらず等質な教育が保障されるべきだ、という考えは非常によくわかります。
ただ、それを理由に、今日からでも通信授業を受けられる生徒の授業も始まらない、というのは、それはそれで機会を奪っているのでは無いか、とも思うわけです。
ただ、この問題は突き詰めていくと、「平等」とは何を指すか、という点に行きつきます。
私が通っていた中学校の話です。
私は中学校で生徒会長をしていました。
体育祭の種目を決めたり、文化祭のテーマを決めたり、今思い返すと中学校にしてはわりと権限おおきめの生徒会だったなと思うわけですが。
役員は六人。男子は私一人だけでした。
立候補は誰でもできます。立候補したのは確か男女同数程度だったと記憶しています。
そして、結果として女子五人と男子一人の生徒会。
体育祭の種目、ダンスの曲目など、圧倒的に女子寄りになりました。
大人にもなれば、それもありだなと思って楽しめるのでしょうが、残念ながら中学生。
かくいう私も性別こそ男ではありますが、あまり人と競いあったり、激しい競技は怖いからやりたくない性格。女子五人が次次と出すアイデアに、それいいんじゃない、と言い続けた結果。
他の普通の男子生徒から大ブーイング。
さて、「平等」とはなんでしょう。
極々簡単に想定できるだけでも、二つあります。
一つは「条件の平等」。
この中学校の生徒会選挙は全くこれです。立候補に性別の条件は無し。誰でも立候補できます。
まあ例えば、あくまで制度上の話をすれば日本の国政選挙も同じですね。年齢の条件、経歴などの条件をクリアして、あとは指定された供託金を納めれば、性別、出生地、宗教など、憲法が平等を保障する要素についてはちゃんとフリーです。
もう一つは、「結果の平等」。
例えば、国によっては女性議員と男性議員の割合が定められています。
ということは、当然男性と女性で競争率が異なるわけですが、最終的な議会構成は一定です。
他にも、目的の平等、手法の平等なども考えられますが、ここでは置いておきましょう。あと、たまたま中学校の生徒会の話を思い出したから男女比の話を例に出しただけで、本題は性別のことではないので、これについて私は一切の意見の表明はしません。
さて、話を戻すと、通信授業を始めることの是非についてですが、
「通信環境が各家庭で揃えられない状況でははじめられない」という発想は、「条件の平等」に強く依った意見だ、ということになります。
一方で、通信環境が揃えられない家庭は、生徒に教室を1室あてがって、学校に来ればおなじように見られる環境を整えたり、課題はメールで送る、面談はビデオは諦めても電話で行う、など、別の手立てを講じることは可能です(それがどれくらいの人数を対象とすることになるのかは現場によって異なるので、実行可能性の大小も同様に異なりますが)。
「条件の平等」は達成できない、「手法の平等」も必要に応じて無視する。でも、それによって「結果の平等」を追求できるなら、それは有りなのではないでしょうか。
もちろん、それを我々がやり切れるという信用がないからこその「格差が」という声なのでしょう。それはよくわかります。
でも、最終的な目的はなんなのか、一ヶ月後、数ヶ月後、あるいはコロナ禍が通り過ぎたあと、あるいはこれによって大きな転換を迫られている教育の、ちょっと遠い未来において、最終的にどうなっていたいのか、どうなっているべきなのか、ということを、改めて整理する必要はあるな、と思います。
というわけで、今夜はこの辺で。