思い出しては、ただ苦い
noteを開いてみると、私の投稿に反応がありまして、誰にも見られないだろうと思って書いていたものですから、今とても驚いています。
やはり誰かに見てもらうというのは、決して悪い気はしません。
昨今のSNSでは、承認欲求という言葉は悪い意味にしかならないものだとして、私もそう思っていたのですけれど、実際に反応を貰ってみるとなかなかに嬉しいものです。
同時に、数字に囚われてしまうような恐怖も感じているのですけれど。
何を書こうかと、他の人の投稿を見てみれば、幼少期、学生時代、とその人の過去を綴る文章が多く、それら1つ1つがまた味わい深いのですが、私はふと、そのようにして書き起こす過去を思い出せないのです。
正確には、きっと覚えてはいるのです。
人は全てを忘れることはなく、思い出せないだけだと、どこかで見たような気がするのですが、私もきっとそうなのでしょう。
友人との思い出話も、振られれば出てくるのですが、私の身一つでは、霧の深い頭の中を晴らすことが出来ません。
過去を思い出せない、なんだかそのことが、私の歩んできた道が、酷く空っぽで虚しいような気がして、少し寂しいと思ってしまうのです。
そのくせ、忘れてしまいたいことだけは、さながら夜に蔓延る悪魔として、眠れない夜を与えてくるのですが。
でも、一つ思い出すことがあります。
それは、大人が嫌いだったこと。
どうして、そんなにくだらない、悲しいことを言ってくるのか。
勉強しろ、将来を考えろ、学校に行け。
なんでそんな、息の詰まることばかり言ってくるのだろう。
彼らもかつて、子供だったのに。
どうして、忘れてしまったのだろう。
なんて。
大人になったというには、まだ青い私です。
しかし、今の私は、そんなくだらない、悲しい、それでいて息の詰まることばかりを言ってしまいそうな気がするのです。
そんな人間になりたくない。
かつて、そう思っていたことは、覚えているのに。
そうなってしまって思うことは、思い出せないのですね。
思い出したくても、思い出せない。
あるいは、思い出そうともしない。
目の前にはあまりにも多くのことが積み重なっていて、意識する暇もないまま、かつての私は黒く、塗りつぶされてしまっていて。
そんな自分が、虚しくてたまらない。
流れる日々を食らう度に、過去から嫌われていくようでたまらない。
輝いて見える過去が、今と未来に影を落として、意識してしまえば、ただ苦しいばかり。
過去を忘れるのは、覚えていては、時に苦いからなのかもしれません。
そんな苦みさえ、嗜んでしまうくらいの心を持てたのならばその時が、本当に大人になったと言えるのかもしれません。
コーヒーを美味しいと感じられるようになったあの時みたいに。
まだ訪れぬ日々のことを、そんな風に思います。
嗜むことのできる、その時が訪れるまで、生きていたいと。