「覚醒」とは何か。
「覚醒」とは何でしょうか。字義からすると目覚める、または気付くと言ったことですが、はっきりとした定義はなさそうです。一般のスピリチュアルでは、「超能力」が身に付くことだと考えられていますが、ほんとはどうなのでしょうか。
過去の日本の伝統では、「仏教」にもその流れがありました。「禅」もその流れの一つと言われます。ですが日本に入ってくる際に、インドヨーガが持っていた「超能力の獲得」の部分が排除され、「霊性の獲得」の部分に特化したのが、いわゆる「禅」と呼ばれるものです。
中国の時代にも「阿羅漢」と呼ばれる「小乗仏教」の部分が残っていました。「禅」が、「大乗仏教」と呼ばれるのは、日本へ渡ってくる際の精錬のお陰と言われます。
その精錬とは、個人的な要求(欲求)になり易い、「超能力の獲得」の部分の排除であり、それを恣意的に行ったのが、「道元禅師」なのだそうです。
「覚醒」も同様で、本来は「個人的な超能力」の獲得にはなく、「計算能力」と同様な、「新たな能力」となることが目指されます。その「必然的な結果」して、エゴ的なものは、洗練されてゆく宿命となります。
変化するのは、「場の意識」と呼ばれる「無意識の次元」であって、「関係の意識」にととっては、あずかり知らぬことなのです。そこに見えるのは、「新たな能力」としての「関係の意識」の姿であって、「気付き」こそがその始まりとなるのです。
それはそれは、「楽しさの感情」を伴っていて、とても「次元の高い」ものとなります。
「覚醒」するとまずは、「世界観」ががらりと変わります。世界を「俯瞰の目」で見られる様になります。
まず変わったのは、「明治維新」の新たな視点です。
「明治維新」を「文明の授精」という視点で見られる様になります。開国を無理やり迫られた日本は、それを受け入れ、「欧米文化」を取り入れます。
そして、「関係の意識」の文化である「欧米文化」のDNAを受精した「日本文化」は、「科学的合理性」と呼ばれる価値観を共有して、「新たな文化の創造」を始めます。
それは、「場の意識」の文化となり、人間の「関係の意識」を根底から変化させる「文明」となります。その必然として、社会の姿も変わり始め、「場の意識」が「主」となる「文明」として花開きます。
明治維新を「文明開化」と呼ぶ習慣もいい得て妙ですが、これは、「関係の意識」のみの観点であって、少しずらして、「場の意識」の観点を加えて認識し直す必要があります。
その具体的な姿は現時点ではわかりませんが、「意味エネルギーの方向」は、明らかに、それを示して見えます。
次回も引き続き、この流れで行きたいと思います。